突如上がった悲鳴と騒音、そして木や草が燃え落ち肉が焦げる臭いが彼がいる座敷牢まで届いて来た。 何が起きたのかは分からずとも、張り詰めた空気に尋常では無いことが起こったことは分かる。 恐怖と焦り、脅えにも似た怒りの感情が彼にまとわりつく。 振り払いたくてもその術は分からず、ただでさえ好きでは無い人間の感情の渦に悪酔いしそうだった。 その様を予知していたのか、敏感な動物達は、今日は一度も姿を見せてはいない…どこぞかへ逃げたのだろうか…。 それでいい…と思う。 どうとはっきり言えるものでは無いが、この場所が安全では無いことだけは確かだったから。 座り続けることも出来ずにずるりと体を崩した時、ドタドタと数人の慌しい足音が響いて来た。 見るまでもなく誰が来たのかは分かる…けれど、強がる余裕も無くそのままの姿勢で迎えざるを得なかった。 呼吸すら自由にならぬほどに苦しい…。 「…ひっ!お、お館様っ!巫子様がっ!」 「何!?ど、どうしたのじゃ!?」 座敷牢の中で力無く倒れている少年に、領主を初め追従して来た下男達一同は一斉に蒼褪める。 いつも人形のように座している少年の常に無い姿に全員がうろたえた。 「錠を開けよ!早うっ!」 「は、はいっ!」 頑丈な鎖と錠が外され、押されるように入った下男が倒れた少年の傍らに跪き、恐る恐る苦し気に歪められた彼の顔を覗きむ。 「お意識はおありでございます!」 「そ、そうか…」 一瞬ほっとした空気が包む…が、直ぐに緊張し、領主である男が表向きだけは尊大な態度を崩さぬままに座敷牢内に入る。 「…立て、童!」 「…………」 「立てと言うておろうが!」 「お、お館様っ!そのように乱暴にされては…っ」 「うつけ!そのような悠長なこと言っておる場合かっ!」 「で、ですが…」 主人の勘気にびくりと体を竦ますが、それでも少年の方が気にかかるのか、おどおどとした視線を双方に送る。 腕を取られて引き吊られるような形になった少年は、耳から聞こえる音よりも直接飛び込んで来る感情の方が辛く、ただされるがままの姿勢で瞳を閉じて痛みに耐えた。 「ふ、ふんっ!このようなうんともすんとも言わぬ童を取り返しに来るとは酔狂な奴等じゃ!じゃが、こやつがわしの手の内にある限り手も足も出まい…!」 希望を述べているのか自分に言い聞かせているのか、殊更大きな声で回りに聞こえるよう告げ、微かに震える腕でがしっと少年を吊り上げた。 「お館様、いかがなさるおつもりで!?」 「この童を人質に館を出るのじゃ!こやつさえおれば、いくらでも財は貯めれる!」 「そ、そのような…っ」 「うるさいっ!他に方法があるか!奴等はわし等を皆殺しにする気じゃぞ!おぬし等はここで死にたいのかっ!?」 邪魔をすれば軌って捨てるとでも言いた気な主に、下男達は縮こまって押し黙るしかない…だが神の巫子を見る限り、されるがままであるのはいつもと同じだが、何があったのか、いつもの凛とした様では無い。自分がどんな状況なのかも分かっていないのかもしれない。 ならば、神罰が下るとしても自分個人を識別することも無いのではなかろうか…そんな打算が彼等の脳を駆け巡る。 意を決したように座敷牢を出て行く主にも何も起こらない…しぶしぶといった感じで着き従う下男達は不安気な表情は隠し切れないが、彼等にはその横暴な主について行く以外選択肢が無いことも事実だった。 自分達の利益のために、神の巫子と知りつつ、主の命のまま幽閉し続けることを選んだその時から…。 秘密保持のため無駄に長い座敷牢から続く階段と廊下を上がり、もうすぐ屋敷の外に出る…という所で、彼等は見慣れぬ衣装の血塗られた刀を握り締める三人の賊に出くわしてしまった。 「っ!?…若君!?」 その内の一人が、領主の腕で絞められるように連れられた少年に気づいて声を上げた。 そのことで、やはりこの巫子が狙いだったのだと血の気が下がる。 「き、貴様等ぁ〜…」 まるで物のような扱いで運ばれている少年の姿に、一瞬にして賊達の瞳が怒りに染まる。 凄まじい怒りを向ける賊の迫力に押され後退る彼等に斬り込もうと一歩を踏み出した時、反対側の通路から兵達が大挙して押し寄せる気配がした。 「殿〜っ!どちらでござるか!?」 「殿〜っ!?」 廊下の奥から聞こえて来た声に一人が目配せを送り、残りの二人が頷いて通路側に飛び込む。すぐさま斬り結ぶ音と悲鳴が響いた。 それを背後に感じながらも、残った男はその双眸に燃え上がる怒りを映しつつ一歩一歩彼等に近づく。 「…その方を離せ」 「なっ…何を…っ」 「その方は我一族の里より攫われし若君。貴様ごとき下郎が触れて良い方では無いっ!」 「な、何を根拠にそ、そのような、ことを…っ!き、貴様こそっ、我館に忍び入り非道をつくす、ぞ、賊ではないかっっ!」 「ふん。貴様等ごとき下等な虫けらの領地の一つや二つ潰した所で我等に非があるはずもなかろう…我等は奪われし若君を取り返しに来ただけなのだからな。さあ、離せ!」 「来るなぁあっっ!!!」 「!?」 男が大きく踏み込むと、領主は顔中から汗を流しながら潜ませていた懐剣を少年の喉元に突きつけた。 「……貴様…っ」 「寄るな!来るで無い、無礼者があっ!それ以上近寄ると、この童の喉元を真一文字に切り裂いてくれるっ!」 「………っ」 「さあ下がれ!下がれっ!」 少年の首筋から血が流れ出たのを見て、苦渋に満ちた表情で男は壁際に身を寄せる。 戦ったことなど無いだろう領主が刀を握っているため、極度の緊張で震える手が軽くではあるが少年の首を切りつけていたのだ。 恐ろしい目で睨まれながらも、一同がゆっくりとすれ違おうとした時、領主は血走った目でにやりと嗤った。 「なっ!?」 すれ違い様にぐさりと脇腹を刺し抜かれた男は驚愕の表情で領主を見つめる。 少年の憔悴した姿に気を取られての虚をつかれたとはいえ、人質に押し付けていた刃をそのまま向けて来るとは思わなかった。 そして続けて、下男達が同じく隠し持っていた小刀で男を襲う。 「お、お許し下されよっ。わし等には巫子様が必要なんじゃっ!」 「成仏して下されっ!」 脅えた瞳のままに体重をかけて斬り付けて来る男達。 「はははははっ!ま、間抜けな賊めっ!そ、そこで息絶えるまで、這い蹲っておるがよいわっ!」 「…っ」 震えながらも嘲笑う領主。 脅えながらも迷わず斬り付けて来る下男達。 そこにいるのは、追い詰められ狂った生き物だった…彼等が足早に視界から消えて行くのを口惜しく思いながら見送り、己の剣を支えにして上体を何とか上げる。 刀身の短さに助けられ内臓までは届いているものは少ない…だが、幾つかの傷は急所を掠めたようだった。 「鬨(とき)様っ!?そのお怪我はっ!?」 自らの流した血のせいでふんばりが利かず、またしても倒れこもうとした時、兵達の迎撃に向かった二人があちこちに傷をこさえながらも何とか無事に戻って来た。 「…安芸音(あきね)、嘉倖(よしゆき)…無事か」 「はい、私達は!鬨様何があったのです!?」 「すまぬ、油断した…下郎共、若君に刃を突きつけて人質にしおった…安芸音、嘉倖、姫様をお守りして若君をお助けせよ!」 「「はっ!」」 「わしのことは捨ておけ。…頼むぞ」 「「はっ!」」 一瞬だけ、その場に置いてゆくことになる老師の傷口を痛ましそうに見つめ、振り切るように二人は駆けて行く。 歴戦の感が、この傷では助からないことを二人にも告げていた。それが分かっているからこそ彼も自分を『捨ておけ』と言ったのだ。 手当てをしたとて、永らえるのはほんの数刻が関の山…ならば余計な時間を使わせるわけにいかない。そして残されたほんの一瞬は…自分が愛した者のために使いたかった。 「安芸音!嘉倖!そこにいたか!?」 「鷹咲(たかさき)!姫様は!?」 「おそらくあちらだ!ここはあちこちに術封じの札が貼ってあってやり難うて仕方が無い!排除するようこの鷹咲他数名が命を享けて走り回っておった!これでおそらく、残るは屋敷内の札だけじゃ!」 「その屋敷内の札がやっかいなんだがな!」 「おぬし等こそ屋敷の中におったなら、呪札を焼き捨ててくれればよかろう!?」 「私達はそのような術は使えんっ」 屋敷の外に出た途端合流した仲間と彼等の主の気配を辿って広い庭の中を走る。 外ではもうもうと火の手が上がり、逃げ惑う人間達の声が聞こえ、あちらこちらに折り重なった死体の山がある。 それを一瞥しただけで何の感情も浮かべず踏み越す。 彼等の御子を長年に渡り幽閉して利用して来た者達なのだ…憎みこそすれ同情の入る隙など一mmも無かった。それどころか、事切れたその体に更に刀を刺し火をかけてやりたいほどの恨みを感じる…時間があればそうしたかもしれない。 駆けつけた先で、武器を持った兵達が密集しているのが見えた。 その更に先で、彼等の姫を中心に十数名の仲間達が相対していた。 あまり動きの無い様子を不審に思い観察すれば、隣に建つ屋敷内に小山の様な男が精一杯の虚勢を張って立ったいるのが見て取れた。 「っ、…あの下衆!あのような場所におったか!?」 「若君はまだ捕らえられたままか!?おのれっ、叩き切ってくれる!」 「待てっ!何故姫様がああしておられるか分からんか!?」 いきり立つ二人に鷹咲が厳しく制して注意を促す。 領主が握る剣は一定せず、今にも御子を傷つけそうな気配…いや、彼の襟が赤く染まっている所を見ると、既に切っ先は彼の肌を傷つけているのだろう。 「今戦うは易いが御子をお助けするは至難…姫様が耐えておられるを我等が壊してなんとする!?今は機を見て下がれ!」 「じゃが鬨様までが倒れられたのに…っ」 「鬨様が!?」 安芸音の悔し気な叫びに鷹咲が驚く。 鬨は、彼等が姫と慕う女性の幼い頃からの守役で、戦部一族の中でもその血の薄さの割には強い力を持つ稀有な人材だった。 そしてその強さを認められ、直系である姫を初め、多くの子供達の教育係兼指南役を務めていた。 それ故に子供達への思い入れは強く、里に火がかけられ子供達が攫われたと知った時の嘆きようは半端では無かった。 しかもその中に、幼い頃から手塩にかけて育てた姫のたった一人の御子までもが含まれていると知れば…。 本当なら、精鋭とは言え捜索隊に加われる年では無かった。 けれどどうしてもと言って加わった…おそらく、子供達の身が心配であるという前に、未然に阻止出来なかった責任を感じていたのだろう…そして、子供を攫われた心痛の中捜索隊の長として起った姫を支えるためだったのだろう…。 だが、老いたとはいえ鬨は戦士として一流であることは間違いない。 それが倒れたと聞けば心中穏やかではいられない…動揺した鷹咲に嘉倖が吐き出すように言った。 「武によって倒されたのでは無い!若君を人質にとられ手を出せなかったのだ!」 悔しさの滲み出る言葉に沈痛な気持ちで俯く。 鬨ならば、今の様な状態では攻撃することは出来はしなかっただろう…だがそれは、彼等の姫にしても同じこと。 捜し求めた我子が目の前で首元を締め上げられ、更に刃物を押し付けられていれば…表面はどうあれ内心では気も狂わんばかりだろう。 それを思うと激しい憤りにかられる。 我等が何をした!? ただ静かに穏やかに暮らしていたかっただけ。 人間達が手を出さなければ、報復にこの力を使うことも無かった。 ならば…罪を犯してまでも欲したこの力で滅ぼされるなら、お前達も本望だろう!? 「…安芸音!?」 突然たがを外した様に力を迸らせた仲間に、共にいた二人はぎょっと目を見開く。 その気配に逸早く気づいた戦部の者達も驚きを隠せない。 「安芸音!?」 「…お許しを、姫様。若君にも少々のお怪我は覚悟して頂きます」 「安芸音っ!?」 真っ直ぐ顔を上げて伝えた決意に、姫はただ静かな瞳で見返す。 「安芸音っ!」 「このままでは彼奴等を無駄に付け上がらせるだけじゃ!この力欲しくばその身で受ければよいっ!」 「…分かった。援護する」 力のコントロールに集中する安芸音に恐怖の視線が向けられる。 その心のままに斬りかかり、矢を射掛ける者達の相手を嘉倖と鷹咲が請け負った。 と、同時に始まった姫達への攻撃…その程度の力に屈する戦部では無い。 「よ、よせっ!止めろっ!止めろおっっ!!」 「若君…ご無礼仕ります!」 恐怖に引き攣る領主の腕に捕らえたられた少年が苦痛に顰めていた顔を上げ、収束する力の気配に意識を向けた。 その時…安芸音と少年の視線が交わる。 「…っ!」 安芸音は、虚ろだった少年の瞳に僅かながらも意志が宿ったのを感じた。 それだけで彼女の心を乱すには充分…少年を捕まえたままの領主の頭を吹き飛ばすつもりで放たれた力は、彼の頭上を掠めただけで轟音を立てて屋敷の屋根を吹き飛ばした。 「ひっ…ひぃっ、ひいぃぃ〜っっ!!」 爆風で舞い上がった埃と砂、砕け散った木片が降ってくる中、領主は恐怖によろめき、震え上がる足を縺れさせて背後にあった柱にこすり付けるように背を寄せる。 いや、柱があったためにそれ以上倒れ込むことも後退ることも出来なかったのだろう。 「……くっ」 限界まで集中して搾り出すはずだった力が心の乱れで手元を狂わせ、狙いを定め切れなかった安芸音は悔し気に…そしてどこか辛そうに顔を顰めた。 彼女の力量を超える力を使ったため、安芸音はその場にふらりと崩れ落ちる。 そんな彼女を庇うように、嘉倖と鷹咲、そして後から駆けつけた数人の戦部の者達が向かってくる人間共を薙ぎ倒し、激しい乱戦へ突入した。 その様子を、囚われの身の少年は呆然と見つめた。 見たことの無い顔。 傷つき、血に汚れた顔と姿。 知らない人間…いや、知らないはずの人間達。 なのに、何故か懐かしいと感じる心。 それを自覚すると同時に、朦朧としていた意識が覚醒し、瞳が鮮明な画像を紡ぎ出した。 世界が赤く染まっていた。 戦う人々の向こう…高く広い壁の向こう側に炎が見える。 頬を撫でる熱い風、舞い上がる火の粉…そして悲鳴と血。 何故自分がここにいるのかが分からなかった。 けれど、それほどの地獄絵図の中にいながら、先程まで奔流の様に流れ込んで来ていた感情の波が抑えられている。 ―――――…なに?…どうして? ふいに、温かな風が心をかすめて包み込むように留まった。 いつも苦しみだけを与えて通り過ぎていくだけの人の感情の波…一刻も早く去ってくれることを願うだけのそれが、自分を労わるようにそこにある。 そしてそれが、自覚も形も無い悪意の渦から彼を護っていた。 それはまるで、細く儚い…けれど決して切れはしない『絆』という名の金の糸。 淡く輝くそれを辿るのは、彼にとっては息をするように簡単なことだった。 そして見つけた…その先にいる人を…高く結い上げた艶やかな黒髪を振り乱し戦うその人…。 目を大きく見開き、少年の口から知らずその言葉が零れ落ちた。 生まれて初めて、意志を持った言葉を口にした。 「……………………母様………」 それはか細い空気に溶け入るような声だった。 戦いの怒号の中にある彼女の耳に、聞こえるはずも無い声だった。 けれど、それなのに彼女は振り向いた…信じられないという表情を顔に乗せ。 彼の自由にならない腕が、ゆっくりと彼女に向かって伸ばされる。 望んだわけでは無い。 考えたことも無い。 彼は自分が虜囚であることをただ知っていただけ。 だから想像したことも願ったことも無い。 自由になる自分など。 自分を助けに来てくれる誰かなど。 けれど、今彼の瞳に映る彼女が、自分に腕を伸ばしてくれると疑いも無く信じた。 それは確信だったのか、それともただ単に希望だったのか…それでもそれは、彼が物心ついて以来初めて自分のためにした行為。 そして、そうやって伸ばされた小さな手の平を魂の底から渇望していたのがその女性だった。 掴みたかった。 握りたかった。 その子を腕に抱くことを何度夢見たか。 攫われた日のことを思い、泣き叫んだだろう我子を憂い、気づいてやれなかった自分を呪い、何度悪夢に魘され飛び起きただろう。 そうして引き裂かれた親子が互いを見つめ合ったのは、ほんの数瞬に過ぎなかったけれど、そのほんの数瞬の間に彼女に隙が生まれた。 震える唇で我が子の名を呼ぼうと開いた口から溢れたのは、深紅の血。 「っっ!?」 「姫様あぁっっ!!」 背中から天を突くように刺し貫かれた一本の槍。 少年の口から音の無い悲鳴が迸る。 纏わりつく人間達を蹴散らし、戦部の者達が蒼白な顔で彼女の元へ集まる。 それすらも適わない者達も、恐れと不安、激しい憤りを覚えながら人間達を薙ぎ倒し振り払う。 絶対的数の差があっても、只人が戦部の戦士に適うはずも無い。 それなのに彼等は異様なまでの強さでかかって来る。 瞳を狂気に染め上げた人間達は、戦神と謳われた彼等に戸惑いを覚えさせた。 彼等は引くわけにはいかなかった。 それは主に対する忠誠心からでは無く、『神の巫子』である少年を永きに亘って幽閉し続け、その罪を自覚しながらも世界の恵みを享受してきた事を承知しているからだ。 その罪により裁かれるのが自分自身であることを誰よりも己が知っているからこそ、恐れ、脅え…だがそれを受け入れられない弱さが激しい抵抗となって現れていた。 自分が悪いのでは無い。 掴まった巫子が悪いのだ。 逃げなかった巫子が悪いのだ。 神の巫子としての人成らざる力があるくせに逃げなかった巫子が悪いのだ。 そうして逃げなかったのならば、巫子は残りたかったのだ。 それなのに我等から神の子を奪うのか!? 我等から神の恵みを奪うのか!? そのような無慈悲なことをしようとする貴様達が悪い! 都合よく正当化された理由で、更に恐れと罪悪感を理不尽な怒りに換え凶刃を振るう。 だが戦部の者達も譲ってやれるわけが無い。 美しかった里は焦土と化した。 幼い子供を自らの体で庇い絶命した先達。 己の力を封じられ、荒れ狂う炎を見上げるしかなかった虚無感。 そして、一族の幼子が攫われたと知った時の絶望。 攫われた子供達は…彼を除いて、全ての命が間に合わなかった。 最期の瞬間に、共にいてやることすら出来なかった。 その苦しみを背負ってここまで来た…譲れるはずが無い。 見苦しい狂気に譲れない信念で向かい、仲間の屍にすら振り返っていられる余裕が無い。 既にこの辺りの村も土地も…人すらも焼き尽くし、残っているのは高い壁に護られて炎が入ってこなかった屋敷の敷地内の者達だけ。 人間の数は三百ほどいた兵達が六十余名ほどにまで減り、対し戦部の者は二十名弱になった。 その人数も、彼の目の前でどんどんと比重を等しいものに近づけていく。 「は…ははは、ははははは!おしまいじゃ…もうおしまいじゃあっ!」 むせ返る血臭と熱気の中、この土地の頂点に君臨して来た男は自暴自棄に嗤う。 兵が戦っているのは主である己のためでは無く、今自分がその場に生きて立っていられるのも己自身の功績では無く…そして、例えこの場にいる彼の敵全てを殺せたとしても、自分が全てを失うことが予想出来たのだろう。 空虚に彷徨っていた視線が、呆れたことにどんな状況になろうと決して離さなかった少年に移る。 痩せこけた土地の受領として終わるはずだった自分に、不相応なほどの栄華を与えたのはこの子供だった。 この子供を買ったのは、『座敷童』のような幸運をもたらしてくれるという与太話を信じたからでは無い…『神の里の巫子』だということを頭から信じたわけでは無かった。 けれど、子どもには人ならざる力があり、この子どもが来てからあらゆる災いが遠退き、土地が潤い、恵みを産んだ。 一度信じたら、離せなかった。 生み出された財を元手に、いつの間にか一国一城の主となっていた。 全て…この子どもを手に入れてから…。 手に…入れなければ、失うことは無かった。 知ってしまったから惜しくなった。 知らなければ、欲など生まれなかった。 そうして子どもを逃がさぬために集めた選りすぐりの兵士達…そのほとんどが動かぬ骸と慣れ果て、今や既に数えるほどを残すのみ。 そして自分を囲むように範囲を狭めて来る化け物のような人間達。 この様な目に会うのは全て…。 「………き、貴様がぁあああっっ」 「若…っ」 男が吼え、自分の孫よりも幼い少年を抱え上げ刀を振りかぶった。 「っっ、ぎゃああああぁぁああっっっ!!??」 次いで響いた悲鳴は、残り僅かな狂気の中にいた者達をも現実に引き釣り戻す威力があった。 男の後ろにあった障子ごと膝から下が切り取られ、慣性の法則のまま階を転げ落ちて少年を地面の上に放り投げた。 「若君っ!」 「と、殿っ」 痛みに転げ回る領主と今や動揺の中戦いを止めた者達の間で、したたかに体を打ちつけた少年がぐったりと横たわる。 「痛いっ!痛い痛い痛いっ、痛いぃいぃぃぃっっっ!!!」 「と、殿!殿、お気を確かにっっ」 「痛い!痛い!痛いっっ!!」 涙と涎を垂れ流しながら悲痛な声を上げる主に、自分達も己の血で赤く染まった兵達は、戸惑いを隠せず近づくことも出来ない。 そして急激に心が冷静になっていく…既に十数名にまで減ってしまった兵達の手から、誰からとも無くするりと武器が零れ落ちた。虚ろな瞳で宙を見つめ、へたり込む者もいる。 その様子を、主に置いてきぼりをくった二本の膝下の足が倒れた向こう側から嘲笑する者がいた。 「……くっ。無様だな。だが貴様には似合いの最期だ…わしにとどめをささなんだ貴様の報いじゃ…」 「鬨様っ!」 体を引きずって屋敷内から姿を見せたのは、満身創痍の老将鬨。 歓喜の声を上げた戦部の者も、彼の血まみれの姿にさっと顔を曇らす。 「…若様は、ご無事か…?姫様は…?」 「鬨様…お目が…」 固唾を呑んで見守る者達の中、鬨はかろうじて支えていた上半身すらもずるりと崩れ落とす。 「…姫様…この鬨が、かならずや…若君…を………」 「……鬨…」 もう動かない体から生者の気配が急速に薄れていくのを戦部の者達は感じ取る。 体に刺さった槍もそのままに、仲間に支えられてそれを見届けた彼女の瞳が哀しみに染まる。 自分の命もほどなく消える…けれど、それでも親しい者の死を見送るのは辛い…それが、幼少の頃から父とも慕っていた守役ならば尚更のこと。 戦意を喪失したらしい人間達を余所に、厳しい表情のままの戦部達が領主と少年の周りに集う。 その内の一人が倒れたままの少年を労わるように抱き起こし、支えられてゆっくりと歩いてくる姫と向かい合わせた。 体は随分弱り衰弱もしているが大きな怪我も無く、多少の打ち身等なら幼少すればじき治るだろう…けれど、二人が言葉を交わす機会は今回で最期になるだろう…。 沈痛な面持ちの仲間達に柔らかく微笑みかけた後真顔になり、まだのた打ち回っている男に視線を移した。 「…とどめを刺しておやり」 「苦しみながら殺してやった方がよろしいのでは?お目汚しでしたら、炎の中に投げ込んで参りますが」 「よい。皆も疲れておろう…無駄な力を使うでない。…突いて殺しておやり」 「御意」 彼女の命令に、既に血を滴らせている獲物が数本振り上げられ、振り下ろされた。 その簡単な作業で男の命は終わったが、その時の断末魔の悲鳴が悲劇を起こした。 「っ!?」 至近距離で消えた最期の悲鳴は、少年の心に戦部という護りを突き破って侵入した。 それによって揺り起こされた意識が、土足で踏み込んで来た負の感情に引きづられる。 「若君っ!?」 突如痙攣したように震え、激しく頭を振るう少年の周りを突風が包み、支えていた回りの者達ごと弾き飛ばした。 突然のことに驚きながらも風と湿った気配に振り仰げば、空には黒雲が広がり始めていた。 「こ…これは…っ!?」 「若君のお力か!?」 少年の周りだけを旋風のように留まっていた突風が次第に広まり、次いで降り始めた雨と共にあっという間に見渡す限りの暴風域と化した。 「若君っ!落ち着いて下さいませっ!」 「我等はお味方ですっ!」 吹き飛ばされそうになるのを何とか踏み止まり声を張り上げると、風の壁に閉じ込められた少年の苦しそうな瞳にぶつかる。 それで、彼が正気を失ったのでは無く、屋敷の外に出て封じられるものの無くなった力が暴走していることを知った。 考えてみれば当然のこと…封じられてさえ天候を左右させた存在が、抑制を解けば、コントロールすることを知らない彼には大き過ぎる力となって襲うだろう…それに気づくことが出来なかった。 断末魔という人間の中で一番強い感情に誘発されて暴走した力は、生半可なことでは収められない。 手を拱いている内に、只でさえ衰弱している彼の身が危なくなるのは明白…だが有効な手立ては無く、唯一力を誘導出来たかもしれない彼の母親は、重傷のため力を振るうことすら出来まい。 打ち付ける雨と風に、放心していた人間達が正気を取り戻して一目散に逃げていく。 それを気にすることも無く、残った戦部達は為す術も無く、途方に暮れたように、忌々しそうに空を睨みつける。 こんなことで失うなどと冗談では無い。 助け出すためにここまで来たのに。 こんな目の前で苦しむ彼を、手を拱いて見ているしかないなどと…! 立っていることも難しい嵐の中、遠退きそうな意識をなんとか引きとめ支えられていた彼女がはっとした様に首に下げていた護り袋を握った。 肌身離さず持ち続けた、彼女の息子が戦部の中でも『特別』だと言われる証。 けれど、それは彼自身が持っているのはよくないと、母である彼女が護るようにと持たされたそれ。 ――――――…我等の手の遠く及ばぬ方に、攫われよう… 御子が生まれた時に下された宣託。 恐れ、抱きしめた日は遠い…それでも、とそれを取り出し、雨で血が流れて綺麗になった両手でしっかりと握り締める。 御子が生まれた時、その小さな手に握り締めていた…蒼い勾玉。 今亡くすよりは…いい! 「……竜神よ…っ!」 彼女の叫びに勾玉が呼応するかのように眩い光を放つ。 次いで世界が揺れたのかと思うほどの衝撃に倒され、目を開けたときにはそこに金色に光る竜がいた。 海よりも深い青の瞳で彼女達を見下ろしながら、長大な体を覆う鱗りも明るい金の鬣と髭を揺らす。 気づくと、止んではいないものの、雨も風も随分大人しくなっていた。 いつの間にかその鬣に埋もれるように乗せられていた少年は、ほんの少しの気絶から覚め、まず自分のいる場所に戸惑い、そして見下ろす形になった人達に目を見張った。 そんな彼に微笑みかけ、彼女はゆっくりと、だがはっきりと聞こえるように言葉を紡いだ。 「……………お行きなさい…。この、愚かな人間達の巣食う、穢れた世界を捨てて…お行きなさい…」 自力では立つことも出来ないのだろう彼女を二人がかりで支え、その支えている者も、その他の者達も辛そうな、苦しそうな目をしながらも笑みを浮かべて頷いた。 「竜神よ…和子を頼みます…」 彼女の囁きに、竜は頭をたれるように一礼をし、ふわりと浮かび上がった。 音も無く空を滑る様に翔る竜の背で、少年は首を振って母を見つめる。 「……………母様……」 縋る様な子の声に、一瞬彼女の顔が泣きそうに歪むが、きゅっと口元を引き締めて横に首を振る。 「…………息災で。…そなたに幸多からんことを…!」 「……母様…っ」 遠ざかる息子の姿に涙が溢れた。 それでも、まだ姿が見える内は見逃すまいと目を見開いていたが、竜の煌く身体が雲を突き抜けて消えてしまうと溜まらず瞳を閉じた。 御子の力によって呼ばれ、竜によっと止められた雨雲と風は、二人の消失によって速やかにその結集力を失って散っていく…そして差し込んだ太陽の光にも心は晴れなかった。 今や無人と化した屋敷の中に彼女と怪我人を運び込み、すのこに横たえながら捜し求めた御子が消えた空を見上げる。 戦闘中は、槍は無理に抜くよりも刺したままにした方が出血も少なくて済むが、今の状態ではそのままにしておくと悪戯に体力を奪うだけになる…動ける者で手分けして家捜しし、応急処置に過ぎない手当てを施した。 同胞である気配を頼りにまだ息のある者を探し出し、同じように自分達も含めて手当てして姫の周りに集まった。 彼女の土気色の顔に、誰もがこれが最期であることを悟る。 生き残った二十一人の同胞達を見渡し、減ってしまった親しい顔、救えなかった哀しい者、たった今別れたばかりに愛しい息子を想い、万感の想いが胸に飛来する。 随分と多くのものを失った…。 「………姫様…」 この六年間、どんな辛い時でも泣かなかった姫が声を押し殺して泣く姿に、斬られた身体の傷よりも心が痛んだ。 それでも、彼を死なせないためにはあれ以外の方法が無かったことだけは事実だった。 だけど…それでも遣る瀬無い想いは消えはしない…。 「…一度なりとも、抱きしめて差し上げればよろしゅうございましたのに…」 それをあれほど望んでいたのだからと…と、鷹咲が苦しそうに進言した。 彼は彼女の夫の親族で、御子が産まれた時も、その後の瞬きほどだった幸福な時も側近くで見守っていた。 御子の遊び相手をしたことも一度や二度では無く、だからこそ心の底に押さえつけられた彼女の嘆きもよく分かっていた。 それ故の苦言に、彼女は苦い笑みを浮かべた。 「……のう、そなた…母とはどんな者と想う…?」 「母…ですか?」 唐突な問いに戸惑う鷹咲を横目に、くすりと笑った拍子にまたぽろりと涙が零れ落ちた。 「私はのう…母とは、温かいものじゃと思うておる…」 「…………」 「じゃが、私のこの身は…」 既に指一本動かすのも億劫な身体を苦く嗤う。 握り締めていたはずの勾玉は、いつの間にか消えていた。 「この…死人のごとき冷たき身体で…どうして和子に触れられよう…」 「ですが、若君は…っ」 「おお…驚いたのう…」 言い募る鷹咲に、姫は嬉しそうに微笑んだ。 「…母と…母と呼んでくれた…。まだ、あの時和子は…二つであったのに…」 「…姫様、和子などと…若君は大きく立派に育っておられたではございませんか」 「ふふ…私にとっては、愛しい和子に…変わりはせぬ…」 瞳を閉じれば、そこに自分に向かって手を伸ばす彼の姿が焼きついている…絶対の信頼を寄せて伸ばされた手に胸が苦しくなる。 「……じゃから、出来なんだ…。私を母と呼んでくれた和子なら…記憶にすら残っておらぬだろう温もりを…覚えていてくりゃるかもしれぬ…」 「………」 「それを……この、この冷たき身体で…塗りつぶしとうは無かった…!」 出血はある程度抑えられていたとはいえ、確実に流れ出ていた命の水。 そして更に身体を打ち付けた雨に体温は容赦無く奪われた。 目の前の我が子を、残された力で強く抱きしめたかった…けれど、それ以上に死人のような冷たい身体の感触を我が子に残すことの嫌悪感に耐えられなかった。 そんなものを、我が子に残す最後の記憶にしたくはなかった…。 「…ひどい、母じゃと…思うか…?」 「………いいえ。…若君もきっと、分かって下さりましょう…」 気休めでしかないと分かっていても、その答えにほっとした表情を見せる。 不安と隣り合わせで戦い続けた六年間…流石に疲れた。 還りたかったのは、平和に暮らしていた戦部の隠れ里。 それはもう喪われて戻らない…けれど、今なら戻れそうな気がした。 誰に脅えることも無く、誰を憎むことも無い…美しく平和で、一族が笑っていたあの場所へ…。 「…………私は、もう逝く…皆も、ご苦労でした…」 「…姫様っ」 「…………………どうか……幸せに、おなり…なさ…い………」 「……っ」 役目は、終わったのだから…。 微かな笑みを浮かべながら、眠りについた。 それを見届けた者達からすすり泣く声が響き出す。 結局、誰一人助け出すことは適わず…一族の至宝は失われてしまった。 何も生まず、何も残らなかった戦いは、胸にぽっかりと穴を穿っただけだった。 これからどうしよう…どこへ行こう…? 戦部の里は既に無く、一族最後の直系である姫は亡くなり、その若君は竜神の半身として連れて行かれてしまった。 一族に残る伝承では、神世に戻った御子が戻って来たという例は無い。 既にあちらを捨てて来たのは遥か昔のことになり、どういった世界なのかを伝える文献は無い…いや、あったとしても、里が焼き払われた今となっては調べようも無い。 ただ願わくば…彼の君に、世界の加護が変わらずあらんことを…。 こうして、現生界での唯一の神族…戦部一族は衰退の一途を辿り、奇しくも彼等の悲願通り歴史の中に名と力を埋もれさせていく。 だがこの数百年の後、かろうじて生き残っていた戦部の端流から、竜神を半身に持つほどの力を持つ子が生まれてしまうのは…まだ誰も知らない遠き未来の物語。 |
つづく |