『………泣いているのか…?』



 頭の中に直接響いた声に、鬣の中に埋めていた顔を少しだけ上げる。
 その声が今自分を背に乗せている龍から発せられた物だということを、彼は疑いも驚きもせずに納得した。

『……戻るか?…母の元へ…』
『………戻らない。…母様が言った…行けと…』
『………そうか………』

 そうしてお互い黙り込んでいたが、少年が温かな鬣の中にまた顔を埋めて心話を送った。

『…ねぇ、龍…』
『私の名は龍神丸という』
『では、龍神丸…あの人が、母様だよね…?』
『………』
『母様…なんだよね…?』

 弱々しい声は自信無さ気で、心の中の不安と寂しさがそのままに龍神丸の心に響く。

『…私には、あの者以外がお前の母には見えなかった』
『…そう…』

 少しだけ安堵したような、けれど変わらず寂しそうな音無き声音。

『…お前の名は…?』
『知らない。…誰も呼んでくれなかった。……名前くらい、母様に聞けばよかったかな…』

 返ってきた言葉に、龍神丸は少なからず目を見張る。

 彼は先程、半身の証である勾玉によって少年の元に召喚されるまで、深くは無い眠りの淵でまどろんでいた。
 元より知識だけは生まれる前から意識の中に刷り込まれ、夢を見るように眠りの中で世界の状況を認識していっていた。
 けれどそれは、彼が属する神部界でのみのことで、界を隔てた地に生まれているはずの半身の様子を知る術は無かった。
 ただ、『その時』が来れば会いに行ける…そう疑うことも無く信じていた。

 それが…悲痛な声に引き攣られる様に目覚めさせられ向かった先で見たのは…累々たる屍の山。

 見渡す限りと言っていい焦土と化した土地の中、唯一残っていた建物に彼はいた。
 暴風雨に煽られ尚消えぬ炎が避けるように残した、戦いの痕跡も生々しい屋敷。
 その一角で、暴走する力に振り回され苦しんでいる半身…その回りで必死に自分を支えているのだろう者達は、己と源を等しくする眷属。

 そう…死体はほとんどが人間で、立っている者は彼が知る一族の者であることは間違いなかった。
 だから攻撃はしなかった。
 けれど、見るからに衰弱の激しい半身をそのままにしておくことは出来なかった…。

 しかし…と思う。
 何が起きたのか…いや、尋常でないほど激しい戦いがあったことは分かる。
 だが何故…と思うのだ。
 このように幼い半身が、あのような血の臭い濃い場所で力を暴走させるなどと…。
 そして、半身の母だろう彼女が言った言葉が気にかかる。

 『愚かな人間達の巣食う、穢れた世界を捨てて』

 愚かな者達と決別するために世界を捨てる…そう言った一族を彼は知っている。
 そう言って神部界を去ったのは、他でも無い戦部一族。
 彼自身が聞いたのではなく、界の守護龍に伝え聞いたに過ぎないが、彼が生まれる…いや、彼と同じ役目を持った龍が生み出される遥か以前の話だ。

 けれどそうして見切りをつけた世界に、自分は彼の一族の子どもを連れて行こうとしている…それは本当に正しいことなのだろうか…?

 だが他に道は無い。

 彼の世界はそこしか無く、彼の母は彼に人間達の世界に居させることを良しとしなかった。
 それならば…。

『……私が護る』

 ふいに告げられた言葉に、少年は力無く首を傾げながら不思議そうな瞳を向けた。

『…私がお前の父となり、兄となろう…』
『………』
『お前に害を為す全てのものから私が護る。…お前が失くした、全てのものの代わりに』

 心からそう思っているのだろう龍神丸の言葉に、数度瞬いて瞳の色を和らげた。

『……………名前を、つけてくれる…?』
『残念ながら、私にその資格は無い。だがお前は、神部界では『救世主アダール』と呼ばれるだろう…『龍神丸』とはその名を持つ者の半身たる守護龍に、『アダール』と同じく代々受け継がれて来た名だ』
『…『救世主』…?』
『魔に対抗し得る大いなる力を秘めし者に冠せられた名だ。便宜上そう呼ばれるというだけで、大した意味は無い。『石』が『石』と呼ばれ、『森』が『森』と呼ばれ、『鳥』が『鳥』と呼ばれる…それと大差は無い。名など、その程度のものだ。個々を区別するに不便で違う呼ばれ方をされるに過ぎん。それにまあ…あまり良い名でも無い』
『……『アダール』が…?』
『そうだ。その名が歴史に出て来るのは決まって乱世だ。それは私の名も変わらぬがな』

 二つの名はセットのようなものだから…と笑う龍神丸に、少年も淡い笑みを浮かべる。

『……『守護龍』って…?』
『共に有り、共に生き、共に戦うということだ。…ずっと離れずに護る…という意味だ』
『…ずっと?』
『そう。この命尽きるまで…尽きし後は甦り、来世まで共に。我が魂が滅び去るまで』

 真面目くさった口調で言い切る龍に、胸が温かくなった。

『なら…いい。『アダール』で…』
『…いいのか?』
『うん…』

 不便だし、その程度だから…と軽く頷いた半身に、龍神丸の方が申し訳ない気分になる。

『…特に親しくなったり、心許した者からなら名を贈られることもある。そういう者が出来たら贈ってもらえ』
『うん…』
『それまでの辛抱だから…な?』

 既に心配性の親のような声を出す彼に、少年は何だか楽しくなってくすくすと笑った。
 代々受け継がれて来たという『アダール』という名は、そんなにも酷いものなのだろうか…そう思っているとふと、自分が笑ったことに気がついた。

『…どうした?』
『……今、笑った…』
『は?…もしかして初めてか??』
『…うん』

 ぎょっと身体を跳ね上がらせた龍神丸に、その拍子に外れかけた手で慌てて鬣を握り直してほっと息をつく。
 龍神丸が気を遣ってくれているのか、速さの割りに風の抵抗も無く、必死にしがみつかなくても落ちたりはしないが、今のように跳ね上がられるとバランスも崩れてしまう。

『…龍神丸』
『ああ、すまんすまん。…だが、どういう所で暮らしていたのだ?』
『酷い所、だったよ…』
『ふ〜む…話せるならば後でゆっくり聞こう。もう神部界に着く』

 その言葉と共に何かを通り抜けるような感じがして、気がつくと景色が一変していた。
 美しい緑の大地に青い空、宙に浮かんだ山の上には七色に輝く虹が架かっている。
 だが、物心ついて以来ずっと薄暗い座敷牢の中だけで育って来た少年には、それが不思議なものだという認識は無く、ただ綺麗だと思うに留まった。

 彼にとって初めてゆっくりと目にする『外の世界』はどこか幻想めいて見えたが、頬に当たる風と直接受ける陽の光が現実だと教えてくれて、ここの来てやっと…あの座敷牢を出れたことが実感出来た。

 色々なことがあった。
 訳の分からぬままに連れ出され、初めて母に会った。
 死んでいく者達の膨大な負の思念に巻き込まれ、血に染まっていく世界を見た。
 力が暴走し…そして今は、限り無く温かい半身の龍と共にある。

『…ここが神部界だ。『神』を名乗る者達が住んでいる…が、性質がいいとは言い切れんがな』
『何それ?』
『関わらずに済むならばそれに越したことは無いということだ。…聖龍殿の者に見つかると厄介だ。一旦どこかに身を隠そう』

 高度を下げる龍の背に、そっと目を伏せしがみつく。

 見知らぬ世界の見知らぬ場所…けれど、人間達の世界のことだとしても知っていることなどほとんど無い。
 結局何もせず、哀しみだけを抱えて逃げて来た…そんな気がする。
 目蓋の裏に浮かぶのは、何故か『母様』だと確信出来て呼びかけた女性の姿。

 本当は『母』が何なのかなど知らない。
 けれどそう呼びたくて…そう呼んだ…ただそれだけだった。

 おそらくもう…どこにもいない。

 龍神丸は、己の背に伏せて震える少年を気遣い、出来るだけゆっくりと優しく飛翔する。
 詳しい事情は分からなくとも、己の半身がひどく傷つき悲しんでいることはよく分かる。

 彼はまだ、これほどに幼いというのに…遣る瀬無さに痛む心で、誓ったばかりの決意を繰り返す。






 必ず護る。

 例えどんな罪を犯したとしても…。





 神部界へと還って来てしまった、半身たる戦部の子を…。






 
つづく