「やあ」





 龍琉輝はやっと会えた待ち人に向かい、にっこりと微笑みかけた。

 けれど、その笑顔を向けられた方はと言えば…それはもう、見事としか言いようの無いしかめっ面で龍琉輝を見返した。
 微笑みさえすれば、文句無く愛らしい花の様な顔を惜し気も無く歪ませる姿が勿体無いやら可笑しいやらで、龍琉輝はますます微笑を深くする。
 その様子を見咎めた少年は不機嫌気にしていたが、やがて諦めたように溜め息を一つつくと幾分空気を和らげ…それでも、決して好意的とは言えない表情で向き合った。
 どうやらそのまま立ち去ることはせず、とりあえずは相手をしてくれるつもりらしい。

「…何だってこんなトコにお前がいるんだ?まさか、あのままずっとこの場所にいたわけではあるまい?」

 腰に手を当て小首を傾げ、自分以上に幼い姿が自分以上に年季を重ねた大人のような仕草で問うて来る。
 アンバランスと言えばアンバランスなのだが、それが何故か視覚的にしっくりと来てしまうから可笑しい。

「いや、君が帰り道を教えてくれたからね。違えず帰れたよ。…あの時はありがとう」

 にっこり、にこにこ…。

 毒気を抜かれるというのは正にこのこと…。
 少年は唖然とした表情を隠しもせず、いや、隠すことも出来ずに龍琉輝を凝視した。
 しばらくして…ぽりぽりと頭を掻き、この日何度目かになる溜め息をしとやかに零した。

「……まさか、礼を言われるとはな…」

 先ほどとは打って変わって拍子抜けしたような表情…それだけのことなのに、随分と少年の雰囲気は変わって見えた。
 その変化を面白く思いながら、それでもふと疑問に思ったことを聞いてみることにした。

「礼を言われるのが、何故不思議なのだ?」
「だって、お前そのために来たのだろう?」
「その通りだ」
「だったら、やはり普通は変に思うだろう?」

 逆に聞き返されてしまい、龍琉輝は大いにみ困ってしまった。
 実の所、龍琉輝にしてもこのようなパターンは初めてなのだ。

 勝手に外出したのが初めてならば、その行く先で人にあったのも初めて。
 更に、怪我をして手当てをしてもらった上に、その人に礼を言いに行こうと出かけたのも初めて…全てが初めてづくしの龍琉輝に、変だろうと言われてしまえば、そうなのかと思わざるをえなく、どちらかと言えば、こちらが聞きたい位なのだと途方に暮れる。

「…変な皇族だな。お前みたいな族は、もっと尊大で不遜で図々しいと思っていた」
「随分な言われ様だな…と、ちょっと待て。今何と言った?」

 あまりな言われ様に半ば感心すら抱いていた龍琉輝だが、その中に聞き逃せない言葉があったことに遅ればせながらも気づくことが出来た。

「ん?だから、尊大で不遜で馬鹿で権力主義で、能無しのくせに図々しい上、ふてぶてしさ余りある…」
「いや、随分と形容が増えている気がするが、それの前に言った言葉だ」
「………」
「…何だ?」

 指折り数え、龍琉輝が止めなければいつまでも項目を付け足していきそうな勢いの少年をやんわりと制し、己が注意を4払いたい点へと導こうとするが、少年はえらく素っ頓狂な顔で自分を見つめ返していた。

「どうした?」
「…怒らないのか?」
「何をだ?」
「今私は、自分で言うのも何だが、検非違使に聞かれれば牢獄行き間違い無しな発言をしたと思うのだが?」
「ああ、そう言われればそうかもしれんな。だが、実際問題ここには検非違使も近衛隊も武官も文官も式部丞もおらんのだから、問題無かろう」
「だが、皇族が訴えれば話は違うだろう?」
「ああ、そういう話も聞くな。殆どはでっち上げで罪を着せているという噂だが」
「そうなのか?」
「知らん。あくまで噂の域を出んことだが、限りなく真相に近いと私は思っている」
「根拠は?」
「女官の噂話だからだ。あれらの会話から好奇心分を差し引けば、真実が転がり落ちて来る」
「成る程な…」

 もし、ここに見物人がいたならば、間違いなくその光景に驚いただろう…。

 年端もいかない少年二人が頬寄せ合って…というほど近くにいるわけでは無いが、話している内容が、何とも物悲しい世情についてである。
 しかし、当の本人達はこれといって違和感は感じていないらしい。
 感心したように何度も頷いている少年を眺めながら、龍琉輝はん?と思う。

「…話が随分と横道に逸れてしまっている気がするのだが…」
「ふむ。気のせいでは無いことだけは確かだな」
「では、そろそろ答えてはくれまいか」

 焦るでもなく、急かすでもなく、龍琉輝はたんたんと先を促した。
 その様子に、少年はぽかんと目を見開く。

「…?。まだ何か疑問点があるならば、そちらを優先しても構わないが?

 そう言われても、こう言えばこう返って来るだろうという予想が全て空振りしてしまった少年は、反応の取り様が無かった。

「本当に変わった皇族だな…」
「それだ!」
「どれだ?」
「何故私が皇族だと分かった?」
「…そんなことが聞きたくて、私の問いに答えていたのか?」

 少年は今度こそ本当に呆れて言った。

「いや、聞き違いかもしれんと思って…とりあえず確認しようと…」
「呆れたなぁ…」

 そう言って、少年は楽しそうに笑った。
 龍琉輝と出会ってから、初めての打ち解けた笑みだったかもしれない。

「……笑うことは無いと思うのだが…私はそれほど偉そうにしていたか?」
「いや、お前ほど変わった奴はそうはいないと思うが、偉そうには見えないな。何故だ?」
「先程の君の概念からいくと、皇族とはそういうものだと括っているよう思えたが?」
「ああ、成る程。いや、一般的にそういった見地で捕らえられているというだけで、全部が全部そうでは無い、と、今初めて分かったところだ」

 そう言ってにっこり微笑み、ついっと龍琉輝を指した。

 どうやら、彼のあんまりに概念から自分は例外にしてくれたらしい…。
 だが、それならそれで、余計に分からなくなる。

 その考えが顔に出たのか、少年は質問する前に続けてくれた。

「自分の姿を鏡で見たことは?」
「もちろん、ある」

 意図が分からないながらも素直に頷けば、少年は悪戯っぽく輝く楽し気な瞳にぶつかった。

「では、自分が今着ている物がどれ位の価値があるか知っているか?」

 言われてふと考えてみたが、そのようなことを気にしたことが無かったのでもちろん知らない。
 今度も素直にふるふると頭を左右に振れば、悪戯な光がますます深くなる。

「では教えてやろう。この上衣だけでも、庶民の生活費二・三年分は裕に取られる。その髪留めなどそれ以上の値段だ。碧玉と紅玉を銀細工であしらった物など、それこそ目玉が飛び出るぞ?飾り帯の刺繍も細かいし、これだけで一財産築けるだろうな…なのに、裾は捲くった形跡も無く土埃で汚れている。そんなことをする世間知らずは貴族か皇族位だ。更に言わせてもらえば、その見事な金の髪。金色の髪は市井では滅多に出ない。貴族の中でも皇族に近しい者に多いと聞く…となれば、こんな立派な衣装を纏った金の髪の持ち主で、それを隠そうともしていない世間知らずは、皇族だと思うのは当然だろう?」

 …返す言葉も無い。

 この着物がそんな大層な品だったとは夢にも思わなかった…。
 自分が着る物は全て女官達が揃えた物で、自分はそれに機械的に袖を通していたに過ぎず…価値など考えたことも、興味も無かった。

「まあ、そんなに落ち込むな。私に言われたことを素直に聞く分別があるだけ、お前は随分と健全だよ。そうだな…これから外に出る時は、せめて髪をありきたりな色に染めるなり、少なくともあと三ランクは下の衣装を用意させるなりするんだな」

 そう言って少年は楽しそうな笑い声を上げた。

 龍琉輝は、自分がとてつもなく無知で阿呆だと言われている気がしたが、よくよく考えればその通りで、また、あの限られた世界の中では当然と言えば当然なことだったので、必要以上に落ち込むことは止めた。

 知らぬなら知れば良い。
 気づいたのなら正せば良い。
 事実は事実として受け止め、それからどうするかの方が大切なのだと乳母も言っていた。

 一つ、大きく息を吐く。
 今は、落ち込むよりも他にしたいことがあった。

「…名を聞いてもいいか?」

 真っ直ぐに彼を見つめて言うと、少年は驚いたように見開き、次いで瞳の奥が微笑んだ。




「………アダール」




「……アダール…」

 知らず、告げられた名を繰り返し呟いていた。

 初めて聞くようで、それでいてどこか耳に馴染んだ、昔から知っていたような、懐かしい音の響き。
 微笑む彼の瞳は、どこか悪戯っ子のように輝きながら、何かを期待するかのような光も宿していた。






――――――…アダール






 もう一度、今度は心の中で繰り返してみる。
 そういえば、自分は随分と唐突に名を聞いた気がするる
 そして彼は、随分と容易く名を明かしてくれた。

 生まれてからまだ七年。
 それでもこの七年の間、これほどまでに他人に興味を覚え、名を明かされたことに感動したことは無い。

 名とは、己を表す最たる物の一つ。
 そしてそれには、種族を表すもの『姓』、親、又はそれに類する近しき者により贈られるもの『名』、そして…産まれる前から魂に刻まれた真実の名、『真名』がある。

 『真名』はその者の本質に深く影響を与えるものであるため、親兄弟といえど滅多に明かしたりはしない。
 だが、普通の名とて初対面に近い者に軽々しく明かしたりはしない。
 名を告げるのは、己が信用に足る者だと判断した場合だ。
 つまり、目の前の彼は、さんざん罵っていた皇族の一員である自分を『信用出来る』と判断してくれたということだ。

 龍琉輝は、そのことがとても嬉しかった。

 そこでふと、記憶に引っかかるものがあった。

「…そういえば、私はまだ名乗っていなかったか…?」
「何だ、名乗る気があったのか?」

 意外そうに言いつつも、ちっともそんなことは思っていない瞳が微笑んだ。

「当たり前だ。本来なら、名を聞く前に名乗るのが礼儀なのだろう?…それが相手に信頼してもらう第一歩だと教わっていたのだが…失念していた」

 ただ、今まで信頼して欲しいとか信頼したいと思える者が回りにいなかったため、すっかり忘れていたのだ。
 皇子という立場にいる彼の名は、宮中にいる誰もが知っていて名乗る必要も無かった…というのも理由の一つかもしれないが。

「そうか。皇族は名は聞いても明かさないものだと聞いていたが、そういう礼儀を教えてくれる者もちゃんといるのだな」
「教師陣は教えてくれん。私は乳母に恵まれたのだ」

 くすくすと笑う彼にやれやれといった様子で言ってやれば、アダールの笑みは一層深いものとなる。

「はぐらかされているようだが、私の名を聞いてくれるか?」
「さあて、皇族の名など聞いても、良い事は少なそうだからなぁ」
「まあ、そう言わずに聞いてはくれまいか?」
「仕方が無い。そこまで言うなら聞いてやろう」

 お互いに、打てば響くような言葉遊びが新鮮だった。
 目が合い、瞳が促すようにどうぞと伝えて来た。

「私の名は、龍琉輝という」

 瞬間、アダールから一切の表情が消え失せた。

「…アダール?」

 不審に思い問いかけても、二・三度声にならないまま口が開閉されるだけで全身が固まってしまっている。
 が、一泊置いてその唇から悲鳴にも似た叫びが放たれた。

「おっまえっ…!第五皇子かっっ!?」

 そのあまりの迫力に、流石の龍琉輝も一瞬腰が引ける。

「………え?……気づいていたのでは…?」
「皇族だというのは気づいていたわっ!…しかし、だが、でも、てっきり、末席に何とか名を連ねる程度の出かと…それが、皇位継承権も持つ第五皇子だと…!?」

 そう言うと、何を思ったのか考えるように黙り込んでしまった。

 龍琉輝は、名を明かしたことによって、かつて自分を小馬鹿にしていた者達が皇子という身分を知って手の平を返すような態度を取った様に、彼も態度を変えてしまうのではないかと不安になった頃…。

 アダールはきっ、と龍琉輝を睨みつけ……。




「何でそんなに腰が低いんだっ、お前はっっ!?」




 憤っているような、呆れているような、ただ驚いているような…そして、気づけなかった自分が悔しいような、そんな叫び。

 龍琉輝はそんな彼を呆然と見つめ、一瞬後…はじかれたように爆笑した。
 生まれて初めて…爆笑という言葉を体感した。




 いつまでも笑い続ける彼の隣で、アダールはバツが悪そうにそっぽを向いて顔を顰めていたが、いつまでも笑い止まない龍琉輝にしびれを切らして小突き回し、それから…いつの間にか一緒になって楽しそうに笑っていた。






 
つづく