「…アダール!」
深い緑に覆われた森の奥、初めて訪れたものならば間違いなく遭難の憂き目に遭うだろう森の中で、既に通いなれた彼の瞳は、労することなく目印もない木々の中から、その中の枝の一つに腰掛けた探し人の姿を見つけた。
「龍琉輝!思ったより早かったな」
晴れやかな笑顔を浮かべて迎えてくれた彼は、声を張り上げなくては聞こえないほどの高みで寝そべっている。
龍琉輝は身軽に木の枝を跳び越え、一気にアダールのいる所まで登った。
「…遅かった…ではなく?」
「今日は話が長い上、中身が無いくせに厳しいという、御老中の授業だろう?もっと遅くなるかと思っていた。…よく抜けてこれたな?」
「それはもう修行の賜物だな。誰も知らない抜け道なら、もう両手の数程度網羅したぞ」
「とんだ不良皇子だな」
「帝位に近く後見人も強すぎる目立つ皇子は、野心が無いと証明するより、無能ぶりをアピールする方が手っ取り早いのさ」
「無欲な奴だな」
「そういう奴の方が、おまえは好きだろう?」
「言ってろ」
明るい笑いが木の枝に反射した。
二人が出会ってから五年の時が過ぎていた。
その間に賢帝と名高かった皇帝が病死し、龍琉輝の異母兄である現皇帝が即位した。そして、まだ子の居ない兄帝の皇太子には、今年十二になった龍琉輝が上がった。
龍琉輝と兄帝の間には、実はもう三人母の違う皇子がいるが、彼らは三人とも、あまり身分の高くない貴族の出の側室を母に持っていたため、皇后を母に持つ龍琉輝よりも王位継承権が下になり、また、母の違う姉妹も十人はいるが、彼女達には王位継承権は与えられていない。
龍琉輝は、兄帝に子が生まれ次第東宮位を退く気でいるが、皇太后となった実母やその親族は、隙あらば龍琉輝を皇帝に伸し上げようとしていることは明白で、権力欲の薄い龍琉輝は、なかなか大変な日々を送っていた。
しかも、上手く隠していたはずだったのだが、最近では目聡い教師陣達により、文武両道に抜きん出て秀でていることが周囲にばれかけ、帝位略奪を企てているのではという根も葉もない噂が兄帝の側近達から流噂される始末…おかげで、授業や非公式行事のボイコット(公式行事だと兄帝の面子に関わるので)等で不真面目振りを前面に出し、その気の無いことを周囲に印象づけるのに精を出す羽目になった。
不幸中の幸いは、父帝に負けず劣らず優秀な義兄は、外野の戯言等には耳を貸さず、弟皇子が凡庸で無いことを知りながらも、彼に邪心無いことを信じ好き勝手にさせてくれていることだろう。
それでも、兄帝が即位するまでは、心無い者の企てにより龍琉輝の暗殺騒ぎは一度や二度では無かった。
その中で、龍琉輝の最も信頼する家臣だった乳母が、凶刃に倒れこの世を去った。
だが、その時も龍琉輝は凡愚の仮面を脱がなかった。
犯人を探し出し追い詰めることは簡単だったが、それが乳母の最後の願いでもあり、探すまでも無く、犯人は分かり切っていた。
異母兄の今は亡き生母…世継ぎを産んでおきながら夭逝したために別の有力貴族の娘に皇后が変わり、また、その新皇后が早々に男児を産んだため、宮殿内の権力を思うまま操れなかった実家の…業を煮やした親類の一人、そんな所だろう。
あの頃はタイミングも悪かったのだ。
父帝が病に倒れ、不甲斐無い末皇子が心配だと、あまりにらしくない言葉をかけられたせいで、安心させようと本来に近い実力で雑事をこなしてしまったことが原因だった。
兄皇子などは、それで彼が実力を抑えていた真意を汲み取ったようだったが、愚かな権力主義者達の目には、父帝が身罷る前に皇太子の座を略奪しようとしているかのように映ってしまったのだ。
そして悲劇は訪れた。
だが、龍琉輝は手を出さなかった。
父帝が崩御されようとしているその時期に、兄皇子と事を構える訳にはいかなかったからだ。
帝位の交代する時期の宮殿内でのごたごたは、内外の関心を集めていることもあり醜聞は広まり易く、決して褒められた行為ではない。更に、帝位の移動に纏わる醜聞は、即位後も何かと在位を揺るがす火種に成りかねず、基盤も薄いものになってしまい、外交上もマイナスになる。
それ故に、神部界の頂点を担う創界山の皇族の一人として生まれた以上、それだけは、決して出来なかった。
だが、乳母を殺されても何の行動にも出なかった第五皇子は、大局を見ない者には腰抜けにしか見えず、実際それが狙いでもあったのだが、安心した兄皇子の親族側は、それきり暗殺計画を引いたのだった。
そして兄皇子は、弟皇子の判断を重く受け止め、内々に首謀者を処断し、そのことを歌に秘め、こっそりと弟皇子に知らせてくれた。
その夜、龍琉輝は誰にも知られぬように宮殿を抜け出し、森の中、まるで待っていたかのような友の腕の中で、堪えていた涙を流した。
首謀者が処分されたことが嬉しかったのではない。
兄皇子の行為が嬉しかったのでもない。
あの宮殿内で、唯一絶対の味方として…時に厳しく、時に優しく、母よりも大きな愛をくれた乳母を想い、その悲しみに泣いた。
そして、その死に何一つしてやれなかった自分自身に、浅はかな考えゆえに乳母を死に追いやってしまった自分自身に、悔しくて泣いた…。
アダールは、誰に聞かれるはずも無い森の中で、声を殺して泣き続ける友を、ただ静かに、静かに抱きしめ続けた。
父帝が身罷られたのは、それから一月後のことだった。
それからも、アダールと龍琉輝は共にいた。
成長するにつれ、教育カリキュラムや雑事が際限無く増えていく龍琉輝に合わせ、二・三週間に一度の逢瀬。
合図は、アダールが提案した空が澄み渡っている時でなければ見られないという、専門家にもあまり知られていない、少し変わった夕欄(せきらん)という名の星が就寝前に見えた時だけ。
この取り決めのおかげで、龍琉輝のボイコットは科目・文武・好き嫌いを問わず、教師陣達にパターンを知られないまま裏をかき続け、五年を迎えた。
だが、星を見れなかった夜や、どうしても外せない用事で行けなかった日等、どちらかが待ち惚けを食らわすこともあってもいいのだが、そういったことは、不思議なことに殆んど無かった。
公式行事等は流石にボイコット出来ず、次の合図の日に謝ろうとすると決まって…。
「あの日は絶対、龍琉輝は来れないと思って私も行かなかった」
と、アダールは笑って言うのだった。
そう、アダールは不思議なくらい宮殿の内部事情に詳しかった。絶対に内部の者しか知らないようなことまで知っていたり、龍琉輝の知らないことをも語ったりもした。
そんな時、龍琉輝がそれは知らないと言えば、
「もっの知らずだなぁ〜相変わらず〜」
と、思いっきり呆れて見せてくれるのだ。
だが、そういう話題は、大抵は周りが龍琉輝の耳に入れないようにしていたことで、しかし、本当は入れておいた方が良さそうなことばかりだったりする。
アダールは自分の情報の中から、そういったものを自分なりの判断で龍琉輝の耳に入れてくれているようなのだ。
それを知ってからは、その情報を知っていても、宮廷内では知らないふりをすることにした。そして、いつか訪れるだろうその情報が必要な時のために、記憶の引き出しにしっかりとしまっておこうと決めた。
そして、与えられる情報だけで満足せず、自分なりにこっそりと、誰にも知られないよう情報の引き出しを広げていくことを覚えた。
知らないでいるより何か少しでも知っていた方が、『何か』があった時に、何倍もましな対応が出来ると分かったのだ。
だが、色々なことから察するに、アダールの情報量は並ではない事が分かった。
自分に明かしてくれるものも、彼の握っているものの内のほんの一握りであるに違いない。
そのことについて尋ねると、
「実は、うちは間諜の一族なんだ」
「ああ、どうりで…忍部一族か?」
「……嘘に決まっているだろう」
素直に納得すれば、白い目で呆れられる始末。
「では何だ?」
「ええいっ!私はお前の言葉や仕種なんぞから皇族だと当てただろーが!お前もそれ位当てて見せろ!」
そう言うと、拗ねたようにそっぽを向いてしまう。
大概のことには正直に応えてくれるのだが、こと属性や一族のこととなると貝のように口をつぐんでしまう。
これはもう、半分は悪戯心だろうが、半分はなかなか当てない龍琉輝に対する意地のようなものだったかもしれない。
しかし、己の観察眼から当てられないことも事実なので、龍琉輝としてはこれ以上突っ込めないのも事実なのであった。
自分よりも二つも幼いくせに自分の倍は物を知っていて、教育係すら応えられないことを情報として持ち、更に自分なりの考えを答えにしているのに、それを決して人に押し付けたりしない…そして、何よりも謎の多い少年…。
口に出したことは無いが、彼の明かしてくれた年齢は嘘ではないかと疑ったことは少なくない。
本人に言えばきっと怒るだろうが、アダールは年毎に可憐になっていく。
最高級の絹糸よりも艶やかな、流れるような銀色の髪を腰まで伸ばし、大きな黒地がかった藍色の瞳は知性的で、整った顔立ちは宮殿内で見かけるどの姫君よりも愛らしい…だが、一見少女のような外見であるのに、創界山でも選りすぐりの、自他共に認める一級武人を教師に持つ龍琉輝と同等に剣技で打ち合ったりする。
更に、あまり表には出さないが、彼は治癒力の他にも幾つか術が使えるらしい。
それ程の実力の持ち主で、この立ち居振舞いと容姿…どれをとっても市井の者では無いことは明らかで、宮殿内においても、随分高い位に地位を置く一族の子息だと見当付けているのだが、その割には、公式行事で会った例が無い。
それ故に、アダールの正体には謎が付き纏い、龍琉輝は頭を抱えるしかないのだった。
「…不気味な奴だな…何をさっきからうなってるんだ?」
そう声をかけられ、はっとして顔を上げれば、言葉とは裏腹な楽しそうなアダールの顔と目が合った。
乳母亡き今、顔を見てほっとするのは、誰よりも心を沿わせている彼だけだった。今もただ、傍にいくれるというだけで、こんなにも心が軽い。
「…お前の正体について思いを馳せていた」
「…私の方こそ、何故分からないか不思議で仕方ないんだが?」
「それを言ってくれるな…私は不甲斐無い男なのだ」
「いや、そんなことは改めて言われずとも百も承知しているが…解せん」
「…そこまで言うか?」
「言ってやらねば、いつまでたっても気づかんのはお前だろう?」
「…そこまで酷くは無いと思うのだが、そうなのか…?」
「では、私の種族を当ててみろ」
「それが分からんから、悩んでいるのだ」
「…そこまで、酷いじゃないか…」
「………」
そうかもしれない、と思ってしまう…。
出会って五年…この年下の友に、口で勝ったことは…未だかつて、無い。
何かで問答していても、最後には必ず彼の言い分に納得してしまう。
それは、彼が口が上手いというだけでなく、彼なりの信念と考えをしっかりと持っているからで、理解しやすく、教本を読み上げる教師達には無い何かがあるからだ。
だが、そうして納得してしまう龍琉輝に、アダールは厳しかった。
本当にそうなのかと、それが己の出した答えなのかと聞き返してくる。
自分の中を見つめ返し、自分の答えを見つけなければ、決して先には進ませなかった。
他人の言葉とは、自分の答えの材料にするものであって、それをそのまま受け入れるのは、自分を殺すことと同義である。
だからこそアダールは真剣だし、龍琉輝も精一杯の誠意を以って接する。
彼とだけは、同等でいたかったから。
そして、最終的にアダールと同じ答えを導き出すと、彼は嬉しそうに笑った。
別に、全てにおいて自分と同じ考えでいて欲しい訳ではない。
全てが同じなら、二人でいる必要は無いからだ。自分一人で事足りてしまう。
そうして二人は、そうした言葉遊びを楽しんでいた。
彼には、自分に従う者になって欲しいのでは無い。
自分を持て囃して欲しいのでも無い。
ただ、彼と共にいたいだけだった。
そのために、彼という人には、自分をしっかりと持って対等でいて欲しかった。
彼という存在が、アダールの中でも大きく支えになっていたのだ。
そして、そのために決めたことがある。
「…いつまでたっても、龍琉輝は私の一族を当ててくれないし…」
「それは、私自身情けない限りだが…」
ため息に交えて呟いた言葉に、龍琉輝は素直に謝罪の意を見せた。
「聞こえたか?独り言のつもりだったんだが…」
「聞かせるように言っておいて、それは無いと思うぞ」
苦笑をのせた龍琉輝に、二年前からついて回っていた暗い影は見えない。
完全に消えたわけでは無いだろうが、たぶん、もう心配は無い。
「……うん。決めた」
彼と出会った時も、こんな晴れた空だった。
妙に気になる人の気配に惹かれ、森に入った自分が見つけた…風変わりな優しい皇子。
決断するには、きっと、今日のような日が相応しい。
「龍琉輝。私の正体当ては、宿題にしよう」
突然の言葉に、龍琉輝はきょとんと小首を傾げてアダールを見返した。
この先を言えば、彼はとても驚くだろう…でも大丈夫。根拠なんて無いけれど、そんな安心感がアダールを包んでいた。
「実は、私の一族の掟で、八つになった子供はある修行を行うことになっている…だが、私は我儘だから、そんな修行はしないと、二年も突っぱねているんだ」
初めて語ると言っていいアダールの一族の事情に、龍琉輝は目を丸くして聞いている。
そんな様子を楽し気に見つめながら、言葉一つ一つを大切な思いを込めて紡いでいく。
「だが、そろそろ長老達の堪忍袋の緒も限界に来ているらしい…それに、私もその修行に興味を持った」
「…興味?」
「…私の中の、厄介な力を…自分自身でコントロール出来るようにする、のだそうだ」
「厄介な力…?」
「…そう」
それは、始めて見るアダールだった。
得体の知れないものに対する脅えのような、不安にゆれる瞳…。
出会って以来感じたことの無い、自分よりも弱い、守ってやらなくては思わせる、幼い瞳。
「…本当は、使わなくて済むのなら要らないと、ずっと封じ込めておいて構わないと思っていたものだけれど、もし、いつか、必要となった時に…それはもちろん、そうならない方が絶対に良いのだけれど…でも、万が一そうなった時に、無様にコントロール出来ない醜態を曝す位なら…そのせいで、何かを失うことが、無いように…今」
龍琉輝を真っ直ぐ見据えて、彼の瞳に映る自分に、嘘が無いことを信じて。
「自分をいじめてみようと思うんだ」
龍琉輝の瞳が、温かい思いを湛えて微笑んだ。
「…いじめて…?」
「そう。…しばらく会えない。一族の皆は嫌いじゃないけれど…ううん、彼らをとても愛してる…この世に生まれてしまった私を、とても大切にしてくれるから…でも、実力に関してはとてもシビアな人達だから、決して甘えは許されない」
「修行はどれ位かかるんだ?」
「普通は、八歳から十八歳まで。個人差はあるけれど、みっちりと十年間の修行プログラムだ」
「アダールは?」
「私は…人より二年遅れているけれど、でも、十六には終わらせる」
「…すごい自信だな」
「その程度の力はあるはずなんだ、私は。だから、不可能じゃない」
「…分かった」
龍琉輝の声は落ち着いていた。
「…本当に?」
「ああ。…私に会わずに、修行に専念するということだろう?」
心が奮えた。
会えないのが辛いのは自分の方だ。
支えているようで、支えられていた、この五年間。
顔が見たい、声が聞きたい…でも、それでは自分が成長出来ない。
だから離れる。
彼の傍にいたいから、未来でずっと…。
「…私は大丈夫。心配なんかいらない。アダールはアダールの思う通りにすればいい…」
寂しくないと言えば、嘘だ。
悲しくないかと言えば、それも嘘。
だけど、今精一杯我慢して、虚勢を張っている年下の大切な友人を、これ以上不安がらせる自分など、冗談ではなく許せない。
そんな自分なんて、要らない。
今勇気付けてやれなくて、この先彼の友を名乗る資格は無いと思った。
だから、自分も精一杯の尊敬と敬慕を込めて…。
「…いつまでだって、待っているから…」
今度会える日を。
自信を持って言える。
離れていたことなんて嘘だったように、変わらずに笑い合える自分達を。
だから、大丈夫。
「…龍琉輝…!」
自分よりも、少しだけ大きな少年の背中を抱きしめて。
自分よりも、少しだけ小さな少年の背中を抱きしめて。
「……頑張れよ」
誰よりも大切な、小さな君に。
「…うん…終わったら、私がお前に会いに行く…!」
強くなって、大切なものを守れる強さを手に入れて…ありったけの想いを込めて頷いた。
想いは翼…小さな宝を抱きしめて…今。
この抱きしめている体が、もう少し大きくなった頃、もう一度出会おう。
まるで、昨日別れたばかりのように。
その時言う言葉は、もう決まっている。
創界山の片隅の、小さな森で交わされた、互いだけが知っている…聖なる約束。
いつか、そう遠くは無い未来に果たされるだろうその時まで…。
「…じゃあな」
別れの言葉は、そんな風だった。
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