神聖が創り賜うた地が魔と闇に侵され、人は己の生み出した一部の人間達を連れ新天地へと移り住んだのは、既に神を名乗っている人にしても遥かな昔の神話…。 自分達とは能力で以って遥かに劣る人間達と、思考の存在とする己等とを区別するため、神聖に与えられた『人』の名を捨て、自らを『神』と定義してからの彼等は、人間を治め、地を治め、傲慢とも言える権利を屈指し、それでも神聖に愛された光に祝福されし一族として魔を圧し、平和に時代を生きていた。 神聖に疎まれし魔が、虎視眈々と復讐の時機を狙っていることも気づかずに…。 目に映るもだけを良しとし、世界の意味を深く考えようともせず、ただ与えられたものを当然としている者達の住む世界…。 人々は呼ぶ。 神々の住む世界、『神部界』と…。 龍琉輝(たつりゅうき)は呆然としていた。 つい半刻前までは間違いなく、文句無しに楽しかった。 開放感に溢れ、かつて味わったことの無い自由を満喫していた。 いつも口煩い臣下や侍従達、更に目聡い女官達の目を盗んで逃亡するという快挙を三刻ほど前に成し遂げ、今頃宮中は蜂の巣をつついたかのような騒ぎになっているだろうとほくそ笑むことしばし…初めての一人歩きに夢中になり過ぎていたのがいけなかったのか…以前行った、その時は供連れだったのだが、町まで足を伸ばしてみよう思ったのがつい先刻。 それからまだ、ほんの数分しかたっていないというのに、彼は身動き取れない状態に陥ってしまっていた。 「………さて、どうしたものか…」 その幼い姿からは想像もつかない大人びた口調で、だが、その状況自体は見かけ通りの幼さ故に導かれた事態で、彼は途方にくれたように溜め息を零し、身動き出来ない原因をちらりと盗み見た。 そのままの状態で放置したため、刻一刻と痛みの増す膝と足首。 まさか自分が、こんな本でしか見たことの無い小動物用の罠にかかってしまうなど、夢にも思わなかった。 本で読んだ時には、こんな簡単で分かりやすい罠にかかってしまう動物は、何と愚かしいことかと呆れ、そんな物にかかる物などいまいと大した興味も覚えず、さっさと次のページを捲っていた自分の姿をまざまざと思い出してしまう。 だが実際に、自分は宮殿を抜け出せたことが嬉しく、浮かれて足元も見ないで、ましてやどう考えても人が通る道では無い所を意気揚々と進み、勇み足のまま思い切り良く罠に突っ込み…見事な転倒を披露することになってしまった。 そして気づいてみると、罠に嵌まった右足は捻挫し、同じく膝には、よくぞここまでと感心したくなるような見事な擦り傷が出来上がってしまっていた。 こんな盛大な傷を負ったのは、龍琉輝にしてみれば生まれて初めてのことで、本来なら泣いて喚いて子供らしく、本当は痛くなど無いだろうと言われても仕方が無いような大暴れでも一つ演じてみたいと思わないでもなかったが、日頃からあまり感情を表に出さぬようされていた教育と、その年にしては利発過ぎる頭と自尊心が邪魔をした。 つまり、騒ぎ損ねてしまったのだ。 あの場で直ぐ、脳裏を掠めた欲求と反射的に目の端に浮かんだ涙の押すままに騒いでいれば、万が一の可能性として、このようなこの様な人の通りそうに無い森の中でも、酔狂な誰かがいて気づいて手当てしてくれたかもしれなかったが、時既に遅し…そういうものは、一度機を逃すと冷めた心では再挑戦など夢のまた夢…。 更に言ってしまえば、ここで人が来るまで騒ぎ続けているのは疲れるし、必ず来てくれるという保証も無い。 そして例え人が来てくれたとしても、それが善人であるとも限らない…自分で言うのも何だが、己の容姿がこの幼さにして人並み以上に整っていることも自覚している。 万に一つの可能性としても、黙って出て来た手前、面倒ごとに巻き込まれるのは何としても遠慮しなければならない…と、彼の人並み外れてお利口な頭は、およそ子供らしく無いというか、多少後ろ向きとも言える答えまで導き出してしまっていた。 そんな彼なりの事情が重なり、龍琉輝は誰に助けを求められもしないまま、痛む傷に内心では焦りながらも対処する術も無く、ただ呆然と座り込んでいるしかなかったのだった。 何度目かも分からぬ溜め息に促されふと見上げた空は、白い雲が所々に浮かぶ、何とも言えず和やかな風情を醸し出していた。 「……そういえば、こんな風に空を見上げたのなんて、初めてかもしれないなぁ…」 何もかもが決められた窮屈過ぎる生活の中、一人ゆっくり空を見上げる暇すら無かったことに、今更ながら気づいて愕然とする。 朝起きて、朝食前に軽い勉強。 バランスのみに重点を置いた、子供好みでは無い食事。 栄養管理のため、残すことを許さない女官達。 界の歴史からしきたりまで、背筋を伸ばしたまま聞かされる講師達の退屈な講義。 武術の基本姿勢と礼儀、それに伴う体力作り。 週一回の麗しき母上様とのお茶会。 月一回の誉れ高き兄上様とのお茶会。 面会を望んでも、取り次いで貰えるも定かでは無い偉大なる父上様。 おべっかを使ってくる臣下や、側近育成のための懇談会。 信頼はしているが、あまり頼りにはならない、気の弱い乳兄弟…。 何とはなしに落ち込んだ…。 自分はまだ、この世に生を享けてから両手で余る程度にしか生きていないのに、何故にこうもせかせかと毎日を送らねばならないのだろう…。 以前行った町では、同じ年頃の子供達が母親に叱られながらも、泥だらけになって遊んでいたというのに…。 宮殿の奥、人目を忍んで潜り込んだ庭の片隅で偶然見つけた外壁の穴…それに入ったのはただの好奇心だった。 その外がどうなっているのか興味があった。 煩い教師陣から逃げ出したかったのもある。 だが本当は、もう一度触れてみたかったのかもしれない…町で見た、あの温かな光景に、ただ触れてみたかっただけなのかもしれない…。 しかし、現実は厳しかった。 宮中で自分の思い通りになることなど数えるほども無かったが、外の世界は更に厳しいものだったらしい…。 目的地に辿り着くことも出来ず、こんな所で痛む足に振り回されながら、ただじっとへたばっていなければならないなどと…。 際限無く落ち込んで行く思考の迷宮に嫌気がさして来た頃、ガサリと背後で緑が揺れた。 「……………」 現れたのは子供。 珍しい銀の髪を肩口で綺麗に揃え、住んだ闇色の瞳いっぱいに不審を浮かべ、座っている龍琉輝が見上げてもそれほど高くはない位置から見下ろしている。 いきなり現れた子供に、その容姿の奇異さもあって口も利けないほど驚いている龍琉輝に向け、子供は開口一番こう言い放った。 「…助け位、呼んだら…?」 声と言葉と表情、そして全身から溢れ出る呆れてますオーラを隠しもせず、子供は溜め息を一つついて座り込み、龍琉輝の傷口に手を当てた。 「……君…男の子…?」 何を疑っていたのかはっきり言わずとも分かる疑問が口をついて出て来たのは、そうは見えなくとも半分パニックになっていた彼の心情を考えれば無理も無いこと…。 とは言え、開口一番それかい…と人のことは言えない少女のような少年が胸中で密かに拳を握っていたとしても、誰も責められはしないだろう。 答えを返す素振りも見せぬまま、たっぷりと開いた間の後、少年はついっと立ち上がり、物も言わずに背を向けて立ち去ろうとした。 「あっ、…と、待って!」 「お帰りは、あ・ち・ら!」 呼び止めようとした龍琉輝の言葉を遮るように声を荒げ、真っ直ぐに一点を指差して振り返りもせず、来た時と同じように物音も立てずに森の中へと消えて行った。 少年が立ち去った後もしばらく呆然としていた龍琉輝だったが、ふと、膝と足の痛みが綺麗に消えていることに気づいた。 「…治癒力?…すごいな、まだあんなにも小さいのに…」 誰もが使える能力では無い。 素質があったとしても使いこなすのは難しく、何年もの修行の末にやっと一人前として認められるという、戦場では欠かせない治癒能力者は、その希少さ故に、他の多くの術者の中でも特に大切にされていると聞く。 それを、あのような年端も行かぬ、自分よりも幼い子供が使いこなしたことにも驚いたが、そうされている間、自分が気づかなかったこと…そして何より、大変な労力を必要とされる治癒術を使い、少年に少しも披露の色が見えなかったことに驚いた。 「…何者だ?」 素直な疑問を口にし、もう一度少年の消えた森に目をやるが、当然姿が見えるはずも無い。 そうして仕方無く彼が指差した方を見ると、そういえば、何となくこっちから来たような気がしなくなも無い…。 どうやら自分は、方向も分からず目的地に向かおうとしていたらしい。 自分で自覚していたよりも随分と舞い上がっていたことが分かり、反射的に顔に朱が昇り直ぐ消える。 初めてだしな、仕方ない…。 自分自身にそう言い聞かせ、龍琉輝は言われた通りに帰ることにした。 何も、冒険は今日限りと決めることも無い。 あの抜け穴さえ見つからなければ、いつだって来れるだろう。 「…そういえば、どうして彼は私の帰り道を知っていたのだろう?」 呆れた顔と無表情の二つしか知らない、それでも十二分に観賞に堪え得る愛らしい少年の顔を思い浮かべる。 「あれで男子とは…」 少年が去ってしまった今、誰に聞かれる訳でも無いのにぼそりと呟き微笑んだ。 「今日は驚くことばかりだ」 何に一番驚いたかは、彼だけしか知らぬこと。 あえて聞き質す者もここにはいない。 また来よう…。 龍琉輝はそう心に決め、足取り軽く帰路へとついた。 帰れば侍従達の小言が待っている。 母上の耳にも入っているかもしれない。 乳母はきっとかんかんがろう…。 待っているものは気の重くなるものばかり…それでも心は軽かった。 彼の名は、龍琉輝。 神々の住む世界、神部界の要を担い、頂点に立つ創界山において、第二位の王位継承権を持つ、第一皇子の年の離れた腹違いの弟皇子。 微妙な立場に立たされている龍琉輝と、彼の心の支えであり、腹心の友となる少年の…それが出会いだった。 |
つづく |