第三章









 千年王国(ミレニアム)アラニア。
 国王カドモス七世の名の下、お世辞にも公平とは言い難いが、一応は平和な日々が続いていた。



 王都アランには王城ストーン・ウェブがあり、東の丘には誉れ高き『賢者の学院』、西の森に隣接した街道沿いには至高神ファリスの神殿がある。
 エトは、その神殿で三度目の春を迎えようとしていた。

「―――そして、我等が至高神ファリスはおっしゃいました。嘘をつくことこそ、人の犯した初めの罪である…と。賢明なる神官見習いの諸君。貴方方も己の言動をよく考え、検討し、嘘偽りの無いことをよく確かめて下さい。…では、本日の講義を終わります」

 壇上で朗々とファリス神の教えを説いていた司祭が告げると、神官見習いと呼ばれた少年達が静かに立ち上がり、最近やっと様になったばかりのファリス神語を口にする。

「ラウマ・アドニア・モイル・デ・ファリス」
「モイロス・ラーム」

 司祭がにっこりと応え、優雅な足取りで講義場を出て行く。
 扉が閉まると、講義場の空気が一気に子供色に染まる。
 神官見習いとはいえ、まだ元気の余っている年頃の少年達だ…これから昼食を挟んだ一時間と少しのの時間は、彼らにとっては貴重な、一日の数少ない十時間なのだった。

「…さてと」

 エトも周りの例に漏れず、ほっとした顔つきで昼食をとるために講堂を出た。
 長い廊下を渡り、裏庭へと向かう。
 そこを抜けた所に、神官と神官見習いのための食堂があった。
 言葉通り『質素』で少ないが、味はいい。極稀にだが、昔を懐かしんでか、司祭級の者までがその食堂へ訪れることもあるくらいだった。

 今日は何を食べようかと考えていたエトは、後からかけられた自分の名をを呼ぶ声に、少なからず驚いて振り返る。
 驚いたのは、その声がついさっきまで講義をしていた者と同じ声で、そしてその者が『神官見習い』程度の自分に直接話しかけるには位の高すぎる者だったせいだ。
 確認した姿にやはりと思い、エトは身を翻して畏まる。

「…ルジェイル最高司祭様…あの、何か御用でしょうか?」

 先ほどエト達に講義をしていた男…即ち、このアラニア・ファリス神殿で最高司祭を務めるルジェイル司祭が、にこやかにエトを追って来ていた。
 その光景に、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまっていたエトに、彼は小さく吹き出すと、柔和な笑みをたたえてゆっくりとエトに歩み寄った。

「突然すみませんね、エト。どうやら貴方を驚かせてしまったらしい」

 既に四十路を越えているというのに、少年のように微笑む司祭。
 見習いという立場ではそんなに機会は無かったが、神殿の誰よりも力を持ち、誰よりも厳しいが、その分誰よりも慈悲深いこの男の講義が、エトは大好きだった。
 彼の纏う温かな空気に緊張がほぐれ、エトの瞳から固さがとれたことを確認したようにルジェイルが口を開いた。

「いえね、マネイダ司祭が君の事をとても褒めていまして、私も一度ゆっくり話してみたいと思っていたのです。なんでも、もう中級の癒しの呪文をマスターしたとか」

 最高司祭という地位にいるのに、瞳を輝かせ、まるで自分のことのように嬉し気に話す彼に、エトも尊敬だけで無く親しみが湧く。
 ちなみに、マネイダ司祭とは中年代の司祭の一人で、エト達見習いの神聖魔法の実技指導をしている人のことである。
 確かにエトは、他の神官見習い達と比べても、頭一つ飛び出て優秀だった。
 治癒魔法は元より、攻撃用の呪文も着実に身に付けている。
 その成長の度合いは目を見張るものがあり、神官位を戴くのもそう遠い話では無いはずだ。

「ありがとうございます。全てはファリスの御心故です」

 にっこりと微笑む彼は、まるで春の木漏れ日のように穏やかだった。

 神官修行に来て早二年…至高神ファリスの懐で直接神の意志に触れている関係か、エトはより一層柔らかな笑みを身につけるに至っていた。
 ロードス広しと言えど、修業期間わずか二年で、ここまで慈悲深く、また神官らしい雰囲気を出せるのはエト位のものだろう…。

「君の神への信仰心はとても深く尊いですね。しかし私には…君はとても急いでいるように見えるのですが、違うでしょうか?」

 流石は最高司祭と言うべきか…優し気な笑みをたたえながら、ずばりと鋭い所をついてくる。

「…そう、見えましたでしょうか…?」

 誤魔化す気は無い。
 気持ち的に焦っていたのは事実だが、意識してやっているわけでは無かったため、人に指摘されるとは思っておらず、少しだけ居心地が悪かった。

「まあ…他の方達は気づいていないでしようが、私にはそう見えたので。当たりですか?」

 エトは明らかにほっとした表情を見せたが、少しだけ気まずそうに肯定した。
 それを微笑ましく見やり、ルジェイルは中庭の椅子に座るよう彼に薦めた。

「…良かったら聞かせてくれませんか?その訳を」

 向けられた真摯な瞳に、故郷を離れて以来ずっと架かっていた心の扉の鍵が、カチリと開く音を聞いた気がした。
 話してもいいかもしれない…この人になら…。
 少しの沈黙の後、エトは重い口を漸く開いた。

「…約束したんです。…その、友人と…」
「約束?」

 聞き返された言葉に静かに頷く。

「小さい頃からずっと一緒に育った僕の、あ、私の幼馴染みの親友です。私は彼の力になりたくて、ここへ神官修行に来ました」

 昔を思い出したのか、瞳が懐かし気に細められる。
 もう二年も会っていない懐かしい親友の顔が脳裏に鮮やかに浮かぶ。
 遠いザクソンの地で、彼は今も剣の修行をしながら一人で暮らしているはずだ。

「…私には身内と呼べる肉親がいません。両親は物心つく前に亡くなり、育ててくれた祖母も十の年に亡くなりました。その後私を引き取ってくれたのが、その友人の家でした」

 順を追うように話すエトの話を、ルジェイルは静かに聞き入る。

「えっと…私の村も、その友人の家も裕福ではありませんでしたが、おばさんは私もまるで本当の子供のように接してくれましたし、不満を感じたことは一度もありません。むしろ私は幸福だったと思います。おばさんも友人も、とても温かくて優しかったから…」

 在りし日を辿るような幸せそうな笑み。
 そう…幸せだった。何も無くても…一緒にいられる、それだけで…。

「私の村には、司祭様所か神官様もいらっしゃいませんでしたから、これと言って信仰する神もいませんでした。でも、おばさんが熱心なファリス信者で、色んな話を聞く内に、私もファリスに惹かれるようになって…でも友人は全然なんです」

 彼女の話を熱心に聞く自分の横で、いつの間にか居眠りをしていた彼。それを思い出してくすりと笑う。
 確かに、他人のエトが信者になって、息子が違うと言うのは面白い話なのかもしれない…ルジェイルもそれに興味を持ったようだった。

「…その方は何故、ファリスを信仰しておられたのですか?」
「おばさんはヴァリス国のロイドの出身なんだそうです。おじさんもそうだったと聞いています。立派な騎士だったと…」
「ほう…彼の聖都のご出身ですか。それは素晴らしいですね」

 ヴァリスのロイドと言えば、ファリス神に仕える者ならば聖地と同じ…彼の都で育ったというのは、神の懐で育ったようなものだった。

「はい。おばさんは、そのことを語ってくれる時はいつも瞳を輝かせて…」

 そして少し、寂しそうに…。

「…どうしました?」

 言葉を切り、黙り込んでしまったエトを不思議そうにルジェイルが伺う。

「…あ、いえ。何でもありません。…それから、文字を教えてくれたのもおばさんでした。私の村では特に必要ではありませんでしたが、いつかきっと必要になるからと教えてくれたのです。…おかげで今、とても助かっています」

 そう言って肩を竦めたエトに、ルジェイルも楽しそうに笑った。

「そうですねぇ。我神殿でも、一応文字から教えることはしますが…自主的に調べ物がしたい時などは、本を読めなくては何も出来ませんからねぇ」
「そうなんです」

 くすくす笑い、しばらくは春の空気を楽しんだ。
 アランはザクソンよりも南にあるため、春の訪れが幾分早い…ザクソンではまだ、雪が残っているだろう…。

「しかしエト。何故そんな大切な人達を置いてまで神官修行に?…あ、いえ、君の信仰心を疑っているつもりはありません。しかし、君はまだ若い…まだ友人達と遊んでいても良い年頃です。確かに君の才能は郡を抜いていますが…里帰りを一度もしないほどに君を駆り立てるものは何です?」

 それが本題だった。
 実は、この神殿の最年少はエトだった。その彼は勉強熱心で、真面目で、才能もある…だが、自分のことはあまり語らず、故郷を嫌っているわけでも無いのに一度も帰ったことが無かった。

 ルジェイルなりに彼が心配だったのだ。

 ロイドの神殿になら、エトよりも若い見習いは大勢いるが、それでも、両親が神職につく等している関係者の子供が多い。
 それなのに、エトはそういった経歴を持つわけでも無く、自らの意志で神殿の門を叩いた。

 確かに、彼位の子供が神殿内に皆無という訳では無い…しかしそれらは、来ても直ぐに止めてしまうか、幼いが故に伸び悩む…エトのように着実に実力を身に付けていく例はあまりに少ない。
 そして彼には…追い詰められている者の様な危うさを感じた…放っておけるわけが無い。

「…おばさんが、亡くなったんです…」

 少し寂しそうに…それでも淡い笑みすら浮かべ、エトは話し出した。

「…病に倒れ、元々そんなに体の強い方では無かったんだと思います。上品な、優しい人でしたから…多分本当は、ヴァリスの貴族か何かだったんじゃないかと思うんです。…そんな人が、女手一つで子供二人を育て、慣れない畑仕事に出て…無理がたたったのでしょう…どんな薬も駄目でした。倒れて半年もせず…季節が変わらない内に亡くなりました。…遺された私達は十二でした」

 とくとくと語る少年の横顔を、彼は複雑な心境で見守った。
 彼は、その幼さに不釣合いなほど人の死に触れている…それなのに神を憎んだりしなかったのだろうか?呪わなかったのだろうか?
 自分の愛する家族を次々と奪い、連れて行ってしまう神を…何故信じることが出来たのだろう…。

 何度と無く祈り、願っただろう…『連れて行かないで』と…。
 それを一度として聞き入れてくれなかった神を…どうして信じ続けることが出来たのか…。

「…おばさんが亡くなってから、随分長い間、私達は何もせずに過ごしていた気がします。友人も私も、彼女をとても愛していたから…彼女のいない世界の全てが意味を無くしてしまい、どうでもよくなっていたのでしょう…でも、私にはまだ彼がいました。心配してくれる隣人達も…私達は一人じゃ無かった。気づいたら…もう止められなかった…私は怖くて…っ」

 ぱたり…と雫が落ちる。

「また彼を…誰かを失う日が来るのかと思うと怖くて…っ!考えて、考えて…そして思いました。あの村に神官様がいて、神の奇跡を起こしてくれたなら…もしかしたら、おばさんは助かったかもしれない」

 今でも覚えている。
 普段から細い人だったのに、病気のせいで一段と痩せ細り…それでも、パーンと自分を心配させまいと気丈に微笑んでくれた…。

「…どんな薬でも駄目だったけれど、だけど、神の奇跡なら…っ」

 痩せ細った手で自分達の手を握り、もう焦点も合わないだろうに、それでもしっかりと眼を見つめ、最後に囁いた彼女の言葉…。



―――――愛しているわ…私の息子達…



 次第に薄れていく意識に懸命にしがみつき、一度握り締めた手に力を込め…眼を閉じた。
 力の抜けて行く手を、自分達はいつまでも握り続けていた。完全に動かなくなっても…そして、冷たくなっても離さなかった…いや、離すことが出来なかった。

「…そしてその年に春に、私はここに来ました」

 膝の上で、まるであの時のように硬く手を結び、その上にぽつりぽつりと雫が落ちて弾けた。

「もう、嫌だったんですっ…目の前で、大切な誰が死んで逝くのを見るのは…成す術も無く、ただ見ているだけなのは耐えられなかったんです…っ!」

 悲しみを押し殺した悲痛な叫び…いつも穏やかに微笑んでいる彼の、心の闇。
 少年の心の奥底にある真実…それは失うことへの恐怖だった。
 失いたくない…少しでも早く一流の神官になれるように、助けられるように、救えるように、間に合うように、早く、早く、少しでも早く…!
 彼だけは…失わなくても済むように…。

「…許してください、エト。辛いことを思い出させてしまったようですね…」

 ルジェイルは沈痛な面持ちで謝罪した。
 自分が思っていたよりも少年の傷は深く、想いは更に尊かった。

「…いえ、大丈夫です。…こちらこそすみませんでした…少し、感情的になってしまって…」

 エトは、懐から取り出したハンカチで涙を拭い、いつもの笑顔を彼に向けた。
 …いや、いつもより少しだけ悲し気な微笑だったそれを、ルジェイルは自分の胸に閉まっておこうと思った。

 そしてやっと分かった。
 穏やかな彼が、不自然に急いでいる訳が…そして、多くを語ろうとしなかった訳が。

 彼の理由は深く繊細で、誰にでも言って歩けるようなものでは無い。
 更に、彼自身が口を噤むことで、ある意味自分を支えていたのだろう…。
 そして、全てを聞き出した彼には、彼のためにやれることがあった。

「お詫びと言っては何ですが、分からないことや知りたいことがあれば私の所にいらっしゃい。出来得る限り、君の夢のために協力しましょう。…君は、努力次第できっと私を超える、素晴らしい司祭になれるでしょう。君が、愛する人と世の平和のためにその力を発揮する限り、エト、ファリスはきっと君に応えてくれるはずです」

 エトの瞳を見つめ、アラニアのファリス神殿最高司祭は厳かに…そして慈悲深い瞳で彼に告げた。
 ファリス神を信仰する者は嘘は言わない。だから、それは気休めでもおべんちゃらでも無い、きっと限り無く真実に近い言葉。
 エトはそれを感じ取り、大きく頷いた。

「…はい!」

 信じよう…神を、自分の力を、そして想いの深さを。
 迷わないで前を見よう。
 故郷を出たあの日と同じ想いのまま、真っ直ぐに未来を見つめた…。











 あらんの都から西に向かう街道沿いで、一人の男が疲れ切ったようにしゃがみこんでいた。
 その横には大きな荷物があり、その重さに耐えかねて一休み…といった所だろう…。

「ふぅ…」

 男は大きく息を一つ吐くと、澄み渡った青空を振り仰ぐ…そこには、程よく雲の散らばった、春先らしい空が広がっていた。

「…あの…」

 遠慮がちな少年の声に振り返ると、黒髪の優し気な面立ちの少年が彼を見ていた。年の頃は十四・五歳…それ位だろうか。

「私に何か?」

 男がにっこり微笑むと、少年は安心したように少しだけ彼に近づいた。

「突然すみません。あの、ファリス神殿に行くにはこの道でいいんでしょうか?」

 不安気な顔には、はっきりと『ここには初めて来ました』と書いてある。
 思っていることがここまで素直に顔に出る子供も昨今では珍しい…知らず、男の顔にも微笑が浮かぶ。

「ええ。この道で間違いありませんよ。もうしばらく…あの森の向こうまで歩かなければなりませんがね」

 親しみを込めて教えると、彼はぱっと顔を輝かせて頭を下げた。

「ありがとうございます!」

 ほぼ百八十度の割合で下げた頭を、また勢いよく戻し、目的地に向かおうとして踏み出した一歩目で歩みを止めた。
 背中の荷物がガシャリと音を立てる。

「……あのぅ…」

 再び向き直った少年が、まじまじと男を見下ろす。

「?…はい?」

 神殿まではこの道をひたすら真っ直ぐ進めばいい…道が分からないということは無いだろう。
 いぶかしむ男に、少年はガシャリ…と荷物を置いて彼と同じように座り込んだ。

「…もしかして、ファリス神の神官ですか?」

 ああ、と合点がゆく。
 彼が足を止めるのも当然と言えば当然だった。
 男は彼の目的地…ファリス神殿に住んでおり、またそれと一目で分かるファリス神官の衣装を纏っているのだから。

「はい、そうですよ。至高神ファリスにお仕えする者です」

 座った姿勢はそのままに胸を張り、そこに刺繍してあるファリスの印を彼に見せる。

「あのっ、じゃあエトって神官見習い知りませんか!?」

 頬を紅潮させて迫って来た勢いに押され、男は一瞬二の句が告げられなかった。
 それにはっとしたのか、少年はばっと体を引き、わたわたと顔の前で手を交差させる。

「あ、ご、ごめんなさいっ!えっと、その…オレ、名前はパーンって言います。エトはこの先の神殿で神官見習いやってるはずなんですけど、あ、オレ達同じ村出身で友達なんです!だから、その…」

 説明している内にどう言えばよいのか混乱してしまったらしい…その余りに素直な反応に、彼の心も温かくなる。

「…エト、ですね?よく知っていますよ」
「本当ですか!?…そっか…ちゃんとやってるんだ…。あの、あいつどんな風ですか?元気にしてますか?」

 瞳を輝かせる少年に、男は優しく頷いた。

「ええ。元気に修行に励んでいますよ。そうですね…彼の話は歩きながらにしましょう。私もそろそろ神殿に帰らなくてはいけませんから。何を隠そう、お使いの帰りなんですよ」

 そう言ってちらりと荷物の山に目をやり、茶目っ気たっぷりに目を瞑ってみせた。
 パーンは一瞬きょとんと目を瞬いたが、彼がゆっくりエトのことを語ってくれるつもりなのだと察し、向日葵のように微笑んだ。

「それじゃあオレ、手伝います!」

 立ち上がり様に大きい方の荷物をひょいっと持ち上げたパーンに、今度は男の方が慌てて押し止めようとする。

「あ、いえ、いいですよ、そんな。気を使わないで下さい。それに君だって、そんな大きな荷物を担いでいるじゃありませんか」
「これ位平気です♪体力作りの一環だと思えば軽いもんです!」

 そう朗らかに笑う少年は、行きましょうとそのまま先に立って歩き出す。

―――――本当に…なんて純真な心を持った少年だろう…

 どこか眩しいものを見るようにパーンの背を追う。

 アラニアは今、ガラス一枚で守られた平和の中にある。
 ほんの小さな衝撃で、停戦状態の内戦の火蓋が、いつ再び落とされるか分からない危うさ…そんな中では、国民達は自分達が生きていくことに精一杯で、通りすがりの他人に興味を向けることすらほとんど無い。
 ましてや、善意だけで動こうとする者など…悲しいかな、それが現実だった。

「神官さーん!早く行きましょうーっ!」

 振り返って笑顔を向ける彼に、男も荷物を抱えて微笑んだ。
 良い少年に会えた…それが彼の、素直な感想だった。








「そんなにすごいんですか、あいつ!?」

 心底驚いたといったパーンの表情に、彼もその反応が楽しくてついつい口が軽くなる。

「ええ。神官見習いの若手の中では一番の有望株ですよ。治癒魔法も攻撃魔法もどんどん身に付けています。勤勉で実直…正に模範生ですよ、彼は」

 嬉しそうに友人の近況を聞く彼は真実楽しそうで、そしてどこか懐かし気で…素直な子供らしい子供だと感じていた彼は、時折パーンの見せる深い瞳に、それだけで無い芯の強さも感じていた。
 エトにも通じる、信じる物、目指す物がある人間の強さを…。

 彼が「頑張ってるんだな…エト」と、少し年よりも大人びた瞳で嬉しそうに笑った頃、森が開けて真っ白なファリス神殿が姿を現した。

「どうもありがとう、パーン。君のおかげてとても助かりました」

 門についた所で荷物を降ろし、心からの礼を彼に告げると、パーンは照れ臭そうに頭をかいて頷いた。

「いいえ。オレもエトの今の話たくさん聞けて楽しかったから…こっちこそありがとうございました」
「パーンはエトに会いに来たのでしょう?直ぐ呼びますから、中まで行きましょう」

 神殿内へと招き入れようとした彼に、パーンは少しだけ迷って、やはり…と言うように辞退した。
 遠慮しているなら必要無いと言っても彼の意志は変わらず、代わりにと一通の手紙を差し出した。
 少年らしい快活な字で、彼と自分の名だけを記したシンプルな封筒。

「勝手を言って悪いんですけど、これをエトに渡してやって下さい」
「それは…構いませんが、何故ここまで来たのに会って行かないのです?そのために来たのでしょう?」

 不思議そうに問うた彼に、パーンは真面目な顔で左右に首を振った。

「いいえ。オレはただ、あいつが頑張ってるだろう場所を見たかっただけだから…」
「しかし…」
「本当にいいんです。…本音を言えば…すごく会いたいです。だけど…それが約束だから…」

 少し困ったようにパーンは笑う。

「二年前、エトが神官修行に出る時に約束したんです。『四年後に会おう』って。だから後二年、会うわけにはいかないんです」

 きっぱりと言った彼に、男は少し途方に暮れた…本当は、彼のためというより、エトのために会わせてやりたかったのかもしれない…。
 その時ふと、彼の背負っていた荷物の中から剣の柄が覗いていることに気づいた。

「…それは…剣、ですね?」
「あ、はい。分かりますか?」

 袋自体が大きかったせいで今まで気づかなかったが、それは紛れも無く剣だった。
 少年が使うには、まだ不釣合いなほど大きな剣…パーンはそれを袋から取り出し、その重みを確かめるように腕に抱いた。

「…これ、オレの父の形見なんです。オレはまだこれを使うには早いけれど、お守り代わりにと思って持って来たんです」

 鞘から数cmほど刀身を出し、その煌めきが健在であることを見届け、またカシンと納める。

「…オレ、父さんみたいな騎士になりたくて、剣の修行をしにフレイムの傭兵隊に入ろうと思っているんです。エトはこの二年間すごく頑張ってたみたいだけど…オレの修行の本番はこれからです。…オレはまだ何もしていない…なのにエトに会うわけにはいかない。だから…会わずに行きます」

 彼の目を真っ直ぐに見つめ、きっぱりとパーンは告げた。
 その目に浮かぶ、大きな決意と志…それは、例え茨の道であろうとも突き進んで行けるだけの強さがある。
 こんな稀な少年は、ロードス広しと言えどそうはいないだろう…いや、自分の神殿にも一人いたか、と考えが至る。

 ロードスの将来を担う若い世代に彼等のような者達がいてくれるなら、今の世がどんなに混乱を極めていても心配は無いかもしれない…そんな気すらしてくる。

 何にしても、彼は彼等に出会えた幸運に感謝した。
 少なくとも彼は、ロードスに住む、未来を憂う者達と同じ重責を背負わずに済むのだから…。
 そして彼等が、互いを親友と呼び、誇らしく語る現実が嬉しかった。

「…そうですね。きっと、エトも同じ気持ちでしょう…」

 本当にそんな気がして、彼はここで彼等を引き合わせることを諦めた。
 会いたくても会わないと言い切る潔さは、きっと己を甘やかさないため。
 顔を見てしまったことで、彼に頼ってしまわぬように…自分自身に、負けてしまわぬようにと…。

「パーン。一つだけいいですか?もしやあなたの父君は…」

 自分の見間違いでなければきっと…。

「オレの父は、ヴァリスの正騎士でした」

 予想通りの答えに、自分の直感が正しかったことを知る。
 ファリスの名の下に集いし正義の騎士達…それがヴァリス正騎士団。
 パーンはその誉れ高き戦士の血を継ぐ者だ。

「やはりそうでしたか…。どうぞ、立派な騎士になって下さい。いえ、きっと君ならなれるでしょう」

 男は微笑んで言った。

「行きなさい。自分の道を信じて。そしてこのロードスに正義と平和をもたらす勇者となりなさい。君にファリスの御加護があらんことを…」

 パーンの額に手をかざし、祝福の言葉と印を与える。
 思いがけなかった幸運に、パーンの顔が嬉しさに綻ぶ…それに彼も誇らし気な笑みを返した。

「ありがとうございます!…それじゃあ!」

 頭を下げて礼を告げ、彼に背を向けてフレイムへと続く街道へと戻って行く。
 それを、彼の背が小さくなって消えるまで、男はいつまでも見送った。


―――――神よ…あの小さな勇者をお守りください


 心の中で祈りを捧げ、閉じていた瞳を開けると…もうそこには彼のよく知る風景が広がっているだけだった。

 あの少年は、これからのロードスにきっと必要な人間になる…その時何故か、そう確信した。
 根拠も何も無く、ただそう感じた。

 パーンは振り返らなかった。
 真っ直ぐに前だけを見つめる…心は既に、フレイムの熱い土地に翔んでいたのかもしれない。








 パーンの姿が見えなくなった同じ頃、門の前で佇んでいる男を見つけた神官が、驚いてひっくり返ってしまった声で叫びを上げた。

「ル、ルジェイル最高司祭様!その大荷物はどうなさったのです!?」

 突然背後で上がった素っ頓狂な声に、エト位落ち着きがあればいい神官なのになあと思いながらも、顔には微塵も出さずに振り返る。

「やあ、カイル神官。いえね、賄いのお嬢さん方が困っていたものですから、他に人もいなかったようなので、初心に還って私が買出しでも…と」

 にっこり告げられた事と次第に、カイル神官と呼ばれた青年は、お嬢さんじゃなくておばさんでしょうという言葉を必死に飲み込んで言葉を繋ぐ。

「そんな、おっしゃって下されば誰でも代わりに行きましたのに。わざわざ最高司祭様がなさるようなことでは…」

 申し訳無さそうに項垂れるカイル神官とは対象に、ルジェイル最高司祭の顔は晴れやかだった。

「いえ、本当によかったんです。素晴らしい逸材に出会う幸運にも恵まれましたしね」
「は…?」

 落ち込んでいた彼は、小声で言われた後半部分を聞き逃し、不思議そうに首を傾げる。

「何でもありません。ではカイル神官。これを食堂まで運ぶのを手伝ってくれますか?」

 にっこり笑ったルジェイルに、カイルは大きく頷いて全ての荷物を抱え上げる。
 そして「お任せくださ〜い!」と叫びながら疾走して行ってしまった…。

「おやおや…あの荷物を抱えて走るのは、大変だろうに…」

 含み笑いを洩らしながら素直な感想を出し、ゆっくりと彼の後を追って食堂に向かった。
 多分、目的地に着く前のどこかで、力尽きているだろう…。
 そしてふと空を見上げ、この空の下真っ直ぐに歩いているだろう少年の姿を思い浮かべる。


―――――…エト。君が神を憎まずにいられたのは、彼がいたからですね…?


 アラニア王国、王都アランの西に聳え立つ城のファリス神殿。
 そこを統轄する最高司祭の名をルジェイルと言った。

 パーンが出会い、祝福を受けた神官が彼だったことを知るのは、もうしばらく後のこととなる。

 ルジェイルから手紙を受け取ったエトは、自分に会わずに彼が行ってしまったことを聞き、とても彼らしいです…と、十四歳の少年の顔で笑ったことがとても印象的だったと、後々になってから彼は楽しそうに語った。















 新緑の季節…太陽の恵みを存分に受け、生命を謳歌している植物達の香りを心地良く感じながら、真新しい神官服に身を包んだエトが『北のザクソン』と呼ばれる村に向かって街道を歩いていた。



 逸る心が急かすのか、歩調がいつもより数段速い。
 四年ぶりの帰郷…同期生達の中でも郡を抜く早さで神官位を戴いたのだが、神殿の神官達にせがまれて随分と長居をしてしまった。
 おかげで、約束の四年から二ヶ月以上も過ぎてしまった。

 彼はもう帰っているだろうか…いや、帰っている筈だ。
 本当は、自分が先に帰って、一人で待っているのが嫌で、彼等の薦めるままに残っていたのかもしれない…だが、それももう遠い記憶のようだった。

 一歩故郷への道を踏み出した瞬間、心がどうしようもなく高揚していくのを感じた。
 そう…帰りたかった。帰って来たかったのだ…神官の位を手に入れたあの瞬間から、心の底から帰りたいという想いが募っていたのだ。

 あの丘を越えれば村が見えるはず…エトは駆け足で丘を登りきる。

 十数m先に村の門が見えた。
 見慣れた…そして少しずつ違う、それでも分かる自分の故郷。
 それを目にした途端、帰って来たという実感が込み上げて来る。

 大きく二度の深呼吸…ゆっくりと門をくぐり、周りを見渡す…懐かしいザクソンの村。
 彼は家にいるだろうか…そんなことを考えながら、村で唯一の酒場の前を横切ろうとして足を止める。
 まだ昼間だというのに、随分と中が騒がしい…何か相談事でもしているのだろうか。

「…オレは一人でも行く!」

 喧々囂々の言い合いの末、懐かしい怒鳴り声が聞こえて来た。
 いや、記憶にあるよりも随分大人び、低く、男らしい声…だが直ぐに分かった。分かってしまった…怒っている声なのに、懐かし過ぎて笑えて来る。

 バタンっという大きな音の後、この四年間会いたくて仕方の無かった顔が出て来た。
 眦を吊り上げていた彼が、自分の姿を見つけ、認めると…驚いたように目が見開かれる。

 思っていた通りの反応で嬉しいよ。

「…久しぶり。相変わらずだね、パーン」

 微笑んで話しかけると、彼の顔が驚きから歓喜の表情へゆっくりと移行する。
 目の前の現実を、間違えないよう受け入れて行くように…。

「…エトっ!!」

 パーンは親友に向かって駆け出した。
 成長した彼等にとってはほんの数歩の差がもどかしい…飛びつくように抱きしめに来た親友を笑顔で受け止め、互いの存在をしっかりと確認する。


 四年の間に随分と成長し、面立ちが変わり、声が変わり、目線すらも変わっていたが…それでも全てが懐かしく、何もかもが愛おしかった。



―――――君の助けになりたいんだ…



 全てが四年ぶり…そうして、別れていた道がやっと一つに繋がった。
 握り締められた、その手のように…。







 
つづく






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