第二章









 森は紅色に染まり、木々は黄金の実をつけ生きと生けるものの喉を潤した。
 その実りの時期を過ぎると、ザクソンには長い冬がやって来る。
 冬を越せる備蓄を家庫に詰め込める頃になると…吐く息は白くなっていた。



 そして…いつもと同じ、だが確実に違う冬が訪れた。

「エトっ!ただいま、エトっ!」

 肩にかかる雪を払うのももどかしそうに、パーンは胸に抱いた小さな袋を大事そうに握り締め、勢いよく扉を開けた。
 肩で息をして帰って来たパーンに、部屋の奥から顔を出したエトがそっと人差し指を口元に持っていく…声のトーンを落とせという合図だ。

「お帰り、パーン」
「あ、ごめん。…母さんの具合、どう?」

 片手で口を押さえ、エトにだけ聞こえるような小さな声で言った。

「今は大丈夫。よく眠ってる…顔色もだいぶいいし…」

 そう言ったエトは、寝ずの看病のせいか少し青白い。

「ごめんな、エト。今日はオレが看てるから少し休んでくれよ」
「いいよ、これ位平気だよ。それよりパーンの方が疲れてるんじゃないのかい?薬師のティーの家はこことは反対側の村の外れにあるんだし」

 そう言ってパーンが外套を脱ぐのを手伝い、その肩の冷たさに眉を顰めた。

「オレは大丈夫!…実は、ティーの家で眠り薬をつかまされちゃって、ちょっと寝ちゃったんだ」

 申し訳無さそうな、情けないような…そんな複雑な表情で告白し頭をかく。
 母の看病をエトに任せて自分だけ…そんな思いが言葉にしなくても伝わってくる。ティーもパーンの様子を見るに見かねて、薬を調合している間だけでもと眠り薬を盛ったのだろう。
 彼を責めることは出来ないし、責める気も無い…どちらかと言えばありがたかった。
 エトも中々休もうとしないパーンの体のことを心配していたのだ。

 パーンはエトに決して嘘をつかない。
 だから彼の言葉は本当だろうから、当初の心配は無いだろう…そして、エトが休まない限りパーンも休もうとしないから、この時エトの出来ることは一つだけだった。

「…じゃあ、少しだけ休ませてもらうよ」
「うん、ゆっくり休んで来て!…ここでエトにまで倒れられたら…オレどうしていいか分からないから…」

 心底ほっとしたように頷き、そして、少し弱気になっているパーンが呟いた。
 それを見て、やっぱり思っていることは同じだな…と嘆息する。

「うん、分かった。でも!何かあったらすぐに起こしてよ?後、暖炉の薪を切らさないようにして暖かくすること!それと君も毛布を被ってなよ…こんなに冷たい体で…風邪引いちゃうよ、パーン」

 そう言って、さっきまで自分を包んでいた毛布をふわりと彼の肩にかける。
 彼のぬくもりと共に優しさがパーンを包んだ。

「…うん」

 今オレが頼れるの…エトだけだもん…心の中でそっと呟き、どこか寂し気な微笑を浮かべた。
 エトの瞳はどこまでも優しくて、見ているとほっとする。
 そんなパーンに包み込むように微笑み、まだあどけない少年の腕で毛布ごと彼を抱きしめた。

「大丈夫だよ、僕はどこにも行かない。…おばさんだって、きっとすぐによくなる。ティーの薬は一級品だもん、下手な呪文より良く効くよ…絶対」

 エトの優しさが胸に染みて行く。
 いつも一緒にいるからだろうか…姿が無いとつい探してしまう、頼ってしまう、甘えてしまう…お互いに。
 でも今はそれでもいと思う。いつか離れ離れになってしまう時は来るだろうけれど、今だけは…互いが互いに必要だったから…。

「…そうだね…エト。…ありがと…」

 目の端に浮かびかけた涙の雫を、急いで手の甲で拭う。
 零れた笑みは、絶対の信頼。

「…それじゃ、お休み、パーン」
「うん。おやすみ、エト」

 エトが寝室に入ると、パーンも母の眠る部屋に向かった。
 ベットの脇に薬を置き、静かな寝息をたてる母の寝顔を覗き込む。

 彼女が倒れたのは、秋も終わりかけ…村の皆で世話をしている果樹園の作業が粗方片付いた頃だった。
 村の外れで他の作業をしていたパーンとエトがそのことを知ったのは、村の者達の手で家に運び込まれて落ち着いた時だった。
 青白い顔で気を失っている母は弱弱しく、何処までも儚く感じられた…。

 ずっと…無理をしていたのだと思う。
 本当は、こんな田舎にいる人では無かったのだと、村の誰かに聞いたことがある。
 それでも、農作業も縫い物仕事も嫌だとも辛いとも言ったことは無い…苦しい所は見せたことの無い母だった。
 そんな母の、初めて見せた弱々しい姿だった…。

 少し出ていた肩を布団を上げて直し、その傍らに座って眼を閉じる。
 いつか聞いた話が頭に浮かぶ…。



『貴方は今、崖の前に立っています。
 そして貴方の足元…そうその崖に、貴方の大切な二人がぶら下がっています。
 二人は今にもその奈落へと落ちて行きそうです。
 一人は肉親、一人は親友。
 貴方はどちらか一人しか助けることは出来ません。
 貴方は、どちらを助けますか…?』



 何故、突然そんなことを思い出したのか分からない。
 だが、そんな疑問とは裏腹に、心は返答を紡ぎ出していく。

―――――どっちも…

 この世で、何者にも変え難い大切な二人の顔が浮かび上がる。

『一人は肉親、一人は親友』

―――――誰か一人が死ななくちゃいけないのならオレが…。だから二人を助けて…!

 オレから二人を奪わないでくれ…

 それが、パーンの答え。










 寝床に入ったエトは、なかなか寝付けず寝返りを打っていた。
 体は眠りたがっている、それなのに眠れない…こんなことは初めてでは無かった。
 以前にも経験した感覚…そう、あれは祖母が体の具合を悪くなった時だ。
 どんどん食が細くなっていく祖母に、不安で不安で仕方がなかった…あの頃。

 目を上げた先にパーンのベットがある。
 まだ小さかった頃は二人で一つのベットを使っていたが、体も大きくなって成長記だしいい機会だからと、エトがパーンの家で暮らすことになった時に新調したのだった。
 狭い家というのもあって部屋自体は同じだったが、それについて不満は無かった。
 それに、互いのベットを行き来したりしゃべっている内にそのまま寝てしまい、朝起こしに来たパーンの母に小言を言われたことも一度や二度では無い。
 そういう生活を始めて…もうじき二年がたとうしていた。

「……ばあちゃん…」

 ぽろりと口をついて出た言葉に驚き、慌てて口を両手で塞いだ。
 だが、既に出てしまった言葉は引き込めることは出来ず、表に浮かんでしまった想いは押さえようが無かった。

「…あ……」

 溢れ出した想いはエトの心を支配する。
 大人びていると言っても、まだ十二歳の子供…全ての感情をコントロールするなど無理なのだ。

 心に詰め込まれたたくさんの思い出達…大好きだった祖母。
 早くに亡くした両親に代わり、エトを育ててくれたたった一人の肉親…九歳だったエトの顔を愛しそうに見つめ、その頬を撫でた手が最後の力だったのか…ゆっくりと瞳を閉じて息を引き取った。

 枕が次第に涙で濡れていくが、もう自分でも止められない。

―――――失いたくない、大切な人。

 確固たる思い。

―――――僕は何も出来ない…?

 我が身の無力さへの慟哭。

―――――何故…?

 世界の喪失感。





 ねぇ、パーン?
 ん?なに?
 ごはんの前のお祈りって、だれにしてるの?
 え?えーと、神様?かな?
 …うん、そうだよね。で、何の神様に祈ってる?
 え?えーと…だれ?
 パーンも分かんない?実はぼくもそうなの…おばあちゃんに言われてやってたんだけど、だれに祈ってるんだろうって不思議になっちゃって…
 そっかあ…そーいやそーだよなあ〜…お母さんなら分かるかなあ…

 おかあさーん…

 私がお祈りしてるのは至高神ファリスです
 し…こうしん…ファリス…?
 そう。エト、私と私のだんな様はヴァリス生まれのヴァリス育ちなの。首都ロイドは聖なる都…至高神ファリスを崇める信仰の街。嘘をつくことを最も罪深きこととの教えを戴くファリスの国。だから祈る神は、いつも至高神ファリス
 へぇ…でも、パーンはファリス神に祈ってるわけじゃないみたいだよ?
 そうね。あの子にはそういったものを強制したことが無いから…おかしいかしら?
 ……ううん。なんとなく分かる。パーンって祈ってるより走り回ってる方が似合うし、自由だから…
 ふふ。その通りね、エト。でもね、いざっていう時はファリスの御名を唱えるはずよ
 ?…どうして?
 毎日睡眠学習してるもの
 あはは♪ねえ、おばさん!もっとファリス神のこと教えて?
 ええ、おやすい御用よ





―――――神官様なら…おばさんの病気も治せちゃうのかな…

 一般的に、どの神に仕える神官でも『神聖魔法』と呼ばれる、神の御力を借りた神の奇跡を起こせるという。
 それは、人々に希望をもたらす『戦の神マイリー』の歌であったり、『大地母神マーファ』や『至高神ファリス』の治癒の呪文等がよく知られている。
 しかし、話に聞くだけの…まだ見たことも無い『神々の奇跡』はエトにとって遠い存在で、漠然としたイメージでしか捉えられることは出来ない。

―――――この村にも、神官様がいらっしゃればよかったのに…!

 それでも、ただ枕の端を握り締めることしか出来なかった…。











 北のザクソンと呼ばれるこの地にも春はやって来る。
 だが、木々の新芽が顔を出し小川の氷も少しずつ溶け始め、春の女神が来訪を告げるのを待たず…暖かな午後の陽射しに包まれ、パーンの母は静かにその生涯に幕を下ろした。

「………かあ…さん……」

 徐々に冷たくなっていく体に縋りつき、残された二人の少年は声を上げて泣いた。
 真実を遮るように閉じられた瞳から、それでも涙が止め処なく零れ落ちる。
 それは…間違いなく母を慕う子供の涙だった…。
 エトも、確かに彼女を母として慕っていた…パーンと分け隔て無く扱ってくれる彼女を、本当の母のように思っていた。
 物心つく前に亡くなってしまった両親。記憶にも残っていない二親。
 幼くして失ったものは大きくて、とても大き過ぎて…祖母一人では補い切れなかっただろう…それを助けたのが彼女だった。
 彼女のおかげで、エトは再び母の温もりに触れることが出来たのだから…だがその人も今、永遠に失われてしまったのだ…。





 質素ではあったが、村人達によって葬儀が行われ、一通りの片付けが済んだ時には、パーンの母の死から十日が経っていた。
 その間、二人を心配した村人達が何くれと無く世話をやいてくれていたが、二人は生き人形のように向かい合って座っているだけだった。

 これからを考えなくてはと思うのだが、全てがどうでもよく思え、何をする気力も無い。
 ただ一人の人の不在に際限無く落ち込み続け…辿り着いた絶望の淵で…お互いを見つけた。
 暗闇の中、淡く光る彼の姿を見つけ…泣きながら微笑んだ。

 ああ…まだ君がいる。

 それが…希望だった。
 そして数日ぶりに外に出ると…そこは緑鮮やかな春になっていた。
 彼等の姿を見つけた村人が駆け寄って来て、その瞳を見て抱きついた。
 肩や背中を叩く者もいる…皆一様に安心したように笑った。

 その騒ぎの中心で、二人は目を合わせ…次いで顔を歪ませ頭を下げた。
 「心配かけて、すみません」…と。
 村人達は首を振る。もういいと笑う。
 二人も笑った…もう、大丈夫だと…。

 大切な者を失った…他に代わり等無い、無二の者を…それでも、まだ世界には愛しさが溢れていた。
 それにやっと、二人は気づけた。

「…パーン、話があるんだ」

 その夜、就寝前にエトがそう切り出した。
 パーンは頷き、自分のベットに座りエトと向かい合う。

 その目を見ただけで、彼の話が何なのか察しがついた。
 母の死から立ち直った彼がどんな道を選ぶのかなど、聞かなくても分かる…分かってしまう。
 ずっと前から知っていたその日が、とうとう来た…それだけのこと。

 真っ直ぐに自分を見たパーンに、エトは一度深呼吸してから一息に言い切った。

「アラニアのファリス神殿に神官修行に行くことにした」

 いつもの穏やかな瞳といつもの柔らかい口調…だが少し緊張しているのか、少しだけ固さを感じる。
 しかし、迷いも後ろめたさも無い、不動の決意が込められていた。

「…そうか」

 エトと目を合わせたまま、微笑みながら分かったと頷く。

「…何も…言わないのかい?…パーン…」

 何の相談もせずに決めてしまった僕に…。
 そんな思いからか、何も言わないパーンにエトの方が不安になったらしい…そんな彼の様子、逆にパーンの方が力が抜け、笑いながらゆっくり尋ねた。

「どうして?」
「だ、だってパーン…」
「決めたんだろ?」
「っ!……」

 互いの目を見つめ合い、しばらくしてエトがはっきりと頷いた。

「…うん」

 その言葉に、パーンは相好を崩し、いつもの笑顔を親友に贈った。

「だったらオレの言うことは何も無い。エトはエトのしたいようにすればいい。いや、そうすべきなんだ」
「……パーン…」

 幼馴染みが一回り大きくなったように感じた。
 一つの悲しみを乗り越えて、確実に大きく成長していく。
 エトは立ち上がってパーンの元まで行くと、彼の手を取りその場に膝間付いて彼を見上げた。

「…必ず、必ずこの村に、この家に帰って来るよ」

 パーンの手を両手で握り締め、確信をもって言葉を紡ぐ。

「僕は君と離れるためにこの村を出て行くんじゃない。いつか…そう、いつか君の役に立てるように、君の力になれるように、その力を得るために修行しに行くんだ」
「…分かってる」

 真っ直ぐな彼の瞳をそのまま受け止める。

「神官になって、帰って来るよ」
「ああ!」

 取られていた手を強く握り返す…もう、言葉はいらなかった。












 エトの出発は、野山が春一色に染まり、小鳥達の歌声が耳に心地良い…そんな日の朝だった。

「忘れ物は無いかい?」
「いいかい?体にだけは充分気をつけるんだよ?」
「いつでも帰っておいで。皆待ってるからな」
「ああ…この村も寂しくなるねぇ…」

 見送りに来てくれた村人達は口々にエトに話しかけ、手を握って別れを惜しんだ。
 エトは一人一人に笑顔で答え、丁寧にお礼を言って別れを告げていく…そして最後に、微笑みながらそれを見ていた親友の所へ行った。

「…パーン」

 覚悟はとうに出来ていたはずなのに、いざとなると何も言葉が出て来ない。

「…いよいよだな、エト」
「…うん」

 パーンの言葉に微笑んで頷いた。
 そう笑えたのが奇跡のように、目頭が熱くなって笑顔を維持出来なくなった。
 ずっと一緒だった彼と、これから何年も会えなくなる…そう思うだけでどうしようもなく悲しくなった。

「…あ、ご、ごめん」

 急いで目を擦る。少し感傷的な気分になっただけなのに、ぽろりと涙が零れてしまった。
 あまりにも心に素直な体の反応に、思わず苦笑も漏れる。

「ほら」
「…ありがと」

 珍しくハンカチを持っていたパーンが素早く渡してくれた。しかし、そんなパーンの瞳も充分に赤くなっている。
 エトはくすりと笑ってハンカチを返した。

「…オレも、二年経ったら村を出るよ」
「え…?」

 パーンは照れたように頭をかき、そして直ぐに真顔になってエトに向かった。

「二年も経てば、オレでも父さんが遺してくれた鎧が着けれるようになる。そうしたら、オレも剣の修行に出ようと思うんだ」

 そう語る彼の表情は、生気に溢れ輝いている。

「エトの神官修行は、どれ位かかるんだ?」
「えっ…と、たぶん四年位だと思う」

 段々と彼の言いたいことが分かって来る。
 昔交わした一つの約束。

「よし、じゃあオレは二年で帰って来る。…四年後にこの村で会おう!」
「うん!」

 誓いの握手を交わす。
 浮かんだ笑みは、自信とはなむけ…そして手を離す。
 互いの未来の成功を信じて…。

 道は別れた…だが、再び交わる日も遠いことでは無い。
 そしてまた別れる日もいつかは来る…だがそれはまた別の話。それに、どんな形になろうとも、二人の目指す未来が同じであることには変わりは無い。



―――――あの時の約束を果たそう



 心の中でそっと呟く。

「がんばれよ!…エトっ!」

 朗らかな笑み、彼に一番似合う顔。
 大きく手を振る彼に、エトも高く手を上げて返した。


「…君も!…パーン!」



―――――大好きな僕の親友…大切な、僕の兄弟!




『ぼくはマホウを使えるようになって、いろんな人を助けたいな』



 一緒に行こう…僕は君の助けになろう…。
 その力を得に、僕は行く。



「行って来ます!」



 心優しき少年は、今、冒険の第一歩を力強く踏み出した。







 
つづく






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