第一章
樹木の葉は若々しい緑を称え、渡る風が次第に熱気を帯びて来た頃、ロードス島の片隅で一人の男の子が生まれた。
時はこの世の地獄を表した魔神戦争から三十五年が過ぎ、平和に慣れた愚か者共が世界を再び戦火の渦に巻き込もうと暗躍していた頃。
場所は、そのあらゆる戦火から逃れられたにも関わらず、内戦の続くアラニア王国だった。
だがそこは、国の中心から外れていたこともあり、内政に絡むような権力者もおらず、その時世にしては比較的平和な村だった。
村の名はザクソン…子はパーンと名づけられた。
月日は流れ、少年が生を受けてから何度目かの夏を迎えたある日、パーンは近くに住む同じ年のエトと村外れの小川で遊んでいた。
この頃既に両親共を亡くしていたエトは祖母と暮らしており、母親しか身寄りの無かったパーンとは境遇が似ているせいか、物心つく前からの仲良しだった。
「エト!そっち行ったよ!」
パーンが元気に呼びかける。
「う…うん!」
至って気楽そうなパーンとは対称に、エトの方は真剣な顔つきで身構えている。
清流の流れに沿って魚達が帰って来るこの季節は、どんな子供でも川遊びに夢中になる。。
そしてこの二人も例外では無かった。
「!…あっ…」
パーンに誘導されてエトの捕獲範囲に逃げ込んで来た魚は、エトの一瞬の隙に腕の間をぬって逃げて行ってしまった。
「あ〜あ…」
エトは落胆の声を上げ、既に手の届かぬ所でまるでからかうように跳ねた魚を見送った。
そこへ、水に足をとられながらも飛沫を撒き散らし、パーンが声を弾ませて駆けて来る。
「エト!獲れた!?」
「ごめん、パーン…逃げられちゃった…」
申し訳無さそうに、そして悔しそうにエトが答えると、駆けつけたパーンは下を向いて弾んだ息を整えた。
「そっか…」
そうして勢いよく顔を上げると、その小さな顔いっぱいに笑みを浮かべて言った。
「あいつ、すばしつこかったもんね!」
その笑顔は無垢で無邪気な子供にだけ許されるもの…見ているエトも、自然と笑顔になっていく。
「それじゃあ、今日はもう帰ろっか」
「うん!」
パーンの出した手を握り、二人揃って家に向かった。
明るい笑い声を残して。
「ただいまあ!」
パーンとエトは元気良く扉を開けて家に入った。
「お帰りなさい。…パーンにエト?」
家の奥から優しい声がした。
二人は声のする方に駆けて行きながら、今日の出来事を楽し気に報告する。
「お母さん聞いて!川にお魚がいっぱいいたんだよ!」
「まあ、もうそんな季節なのね。それでどうだったの?」
窓辺の椅子に腰掛けて縫い物をしていた女性は、手を止めて顔を出した息子達を手招いてお帰りなさいのキスをした。
こんな田舎には似つかわしくないほどの上品な女性だが、二人を見つめる瞳は何処までも優しさに満ちている。
「えへへ…いっぱいいたんだけど、一匹もとれなかったんだぁ。ね、エト?」
悪びれる事無く言ったパーンに、エトも苦笑しながらも素直に頷いた。
「まあ…ふふ」
その様子に微笑んだ母親に、二人は今日の小さな冒険談を身振り手振りを合わせて熱弁し、彼女も相槌を打ちながら楽しそうに聞いていた。
「パーン、エト?話はつきそうに無いけれど、二人とも泥だらけよ?さあ、こちらにいらっしゃい」
話が一区切りした所で立ち上がり、汲んであった桶と手ぬぐい、そして着替えを持って来て膝をついた。
部屋に満ちる陽の光と同じように温かい彼女。
母親というのは、こういうものなのだろうか…。
エトはぼんやりとそんなことを思った。
優しい声も暖かな手も知っている。
だが、与えられたそれらは母からでは無かった。
祖母からであることを不満に思ったことも、愛情を疑ったことも無いが…寂しく思ったことは…ある。
「エト?」
「…え?」
突然暖かなぬくもりが頬に触れ、心配そうに覗き込んでくるパーンの瞳に驚く。
「どうかしたの?」
そう言われ、初めて自分がぼんやりしていたことに気づいて慌てた。
「え!?えーと、あの…」
何とか誤魔化そうと言葉を捜すが、自分でもどう言えば良いのか分からず、焦りだけが積もる。
その時ふと、エトを温かい優しさが包み込んだ。
柔らかな感触、花よりも良い香り…触れているだけで安心する…それはパーンの母が彼を抱きしめているからだとやっと気づいた。
「お、おばさん?」
不思議に思って声をかけるが、それが掠れていることにエト自身が驚いた。
「…エト、少しは楽になったかしら…?」
優しい声が耳元でした。
気恥ずかしさと嬉しさが混同し、戸惑いに手が震える。
「寂しくなったのなら言ってちょうだい?…エト、私はね…あなたの母親でもいたいのよ?」
そんなことを言ったらエトのお母さんに怒られるかしら…と付け足し、彼女は花のようにふわりと微笑む。
エトの瞳から、熱いものが零れ落ちた。
その言葉が嬉しくて、無性に切なくなって涙が出た。
自身に問わなかったことは無い。
何故父がいないのか。
何故母がいないのか。
何故…自分の側にいてくれないのか…。
幼い心には重過ぎる疑問。
そして当然の疑問。
いて当然の存在の欠落により空いた心の穴。
ぽっかり空いたそこを吹き抜ける寂しい風…。
それは、エトを年以上に大人びた、聞き分けの良い子供にさせていた。
だが、だからと言って穴が塞がるわけでは無い。
それでもそれを、気づいて、埋めようとしてくれる存在もあった。
それを感じた時、背中に大好きな彼が抱きついてきた。
「…エト、エトぉ〜泣かないで、ぼくがいるよ?ね?ぼくのお母さん、エトのお母さんなら、ぼく達兄弟だよ?だからねぇ、エトぉ…!」
エトの涙につられたのか、パーンもしゃくり上げながらも必死にエトを泣き止まそうとしている。
だが、言いたいことの半分も言えないのがもどかしいのか、彼の小さな手が、同じ位小さな友人の背中にしがみつく。
まるで、伝えきれない言葉を思いにして感じてもらえないかとでも言うように…。
エトはゆっくりと彼を振り返り、涙交じりではあったが、嬉しそうに微笑んだ。
「…そうだね、パーン。…ぼく達兄弟だね…」
自分の言葉がそのまま心に染み込んでいく。
例え血が繋がっていなくとも、自分と彼は兄弟だった。
同じ村で生まれ育ち、同じものを見、同じことを感じ…そして、同じ人を『母』と慕っている。
この世の誰が否と言っても、自分達は兄弟だった。
そう思えることが、そして思えたことが嬉しく…また涙が溢れた。
そして、同じ人に抱きしめられながら…泣きながら微笑み合う。
その涙が悲しみからのものでは無いことがお互い分かり合えたから笑えた。
幼い笑顔から零れ落ちた雫に、夏の陽射しが反射して輝いた。
何年かが過ぎ、高齢で食も細くなっていたエトの祖母が、冬が来る前に静かに永久の眠りについた。
エトはパーンの家で暮らすことになり、少年達は十歳になっていた。
眠っていた草木達が暖かいそよ風と共に芽吹き始め、世界が春の女神の好みによって彩色されていく。
人々は戸を開け門を放ち、春の女神の到来をワインを片手に喜び合った。
そんな中、パーンとエトは緑と黄緑に色づけられた小高い丘で、並んで寝そべっていた。
「ふぁ〜あ…やあっと春になったなあ〜…」
盛大なあくびと共に、感慨深そうにパーンが呟いた。
頬を撫でる柔らかな風が心地よい…その中に香る緑の息吹に春が来たことが実感出来る。
「ザクソンの冬は長いからね」
「それもそーだけど、冬はあんまり遊べないから余計長く感じるんだ」
パーンの言い様に、エトはくすりと微笑を洩らす。
空に浮かぶ小さな雲は、太陽の恵みを妨げるほどでは無い。
この季節になると、全てが美しく、全てが愛しく思えてくる。
「…なあ。エト…」
「なんだい、パーン?」
いつに無く固い口調のパーンに、微笑を浮かべたまま聞き返すエト。
エトはいつも穏やかに微笑んでいた。
それは全てを認め、全てを許し、優しく包み込んでいるようで周りの者を安心させる。
この頃の彼等は、お互いがお互いを必要とし、それが当然で自然になっていた。
だからいつまでもこのままでいたいと願っていた…しかし、それが適わないだろうことも…うすうす気づいてはいる。
「…あのさ、エトは…どう思うかなって…」
パーンにしては珍しく落ち込んだ声だった。
だからこそぴんっと来る。
さっき耳にした、村での噂…。
「…さっきの、話かい…?」
「……ああ」
パーンは真っ直ぐに空を睨みつけているが、その瞳はどこか寂し気だった。
パーンが生まれる前に父親と死別していることは周知の事実だったが、そのパーンの父、テシウスの死については色々な噂が飛び交い、そのほとんどが根も葉もない噂や不名誉なものだった。
そのせいで、パーンが子供達のいじめの対象になることもままあったが、彼はそれに屈したことは一度として無い。
だがそれでも…極稀に、言い様の無い不安に襲われることがあった。
「パーンはどう思っているの?」
極簡単な…そして重い意味のこもった問いを投げる。
それに跳ねる様に起き上がったパーンが、真っ直ぐにエトの静かな瞳を見つめる。
「信じてる。父さんはそんな人じゃない。母さんが信じてるようにオレだって信じてる!」
はっきりと言い切った後、それまで迷いの無かった瞳が揺れ、ゆっくりと視線が外された。
「…だけど…」
ぎゅっとズボンを握り締め、搾り出すように言葉を続けた。
「…だけど、オレは母さんみたいに父さんを知っているわけじゃない。…それどころか顔も知らないんだ。話だけじゃ想像は出来ても何一つ確証を持てない…オレだって信じたい。信じたいんだ…それなのに…」
いつまで経っても消えない噂…それがパーンを苦しめる。
母は違うと言う。在り得ないという大人もいる。それなのに噂だけがいつまでも消えない。
「…なんで、側にいて『それは違う』って、言ってくれないんだよ…父さん…っ!」
それだけでいいのだ。
それだけでパーンは心から信じることが出来る。
それなのに、その一言を言ってくれるはずの父は、既にこの世にはおらず、この言葉を得ることは永久に無い。
出口の無い迷路に光が射すことは二度と無い…終わりの無いメビウスの輪が永遠に続くのだ。
パーンの苦しみをずっと見て来たエトには、自分のどんな言葉も彼を救うことが出来ないことは分かっていた。
だから、弱音を吐き出した彼に自分が出来ることを考える…彼のために、自分が出来ることを…。
「…パーン」
エトの優しい声に、パーンの心に何かが掠った。
「パーン。君は何になりたいって言ってたっけ?」
「…え?」
反射的に顔を上げ、自分を見つめる優しい瞳にぶつかった。
よく知っている瞳、よく知っている声、そしてずっと側にあった彼の顔。
『オレノ…ナリタイモノ…?』
「言ってたじゃないか。ほら、思い出してみてよ!」
穏やかなエトの声が記憶を揺さぶる。
笑い声が聞こえる。
今よりももっと前…そう、もっと幼かった頃の自分達の…。
パーン!…パーン!ぼくそんなに早く走れないよ!
おそいよ、エト!もっと早く走れなくちゃ!もっともっと、もおっと!
あはは!パーンはすごいね。でも、そんなに早く走って何になるの?
えへへ〜♪ぼく……………になるんだ!!
へぇ、そうなんだ!それじゃあ、ぼくはマホウをつかえるようになって、色んな所で色んな人を助ける人になりたいな
すごいや!ねえエト!それじゃあ、大きくなったら一緒に旅しよう?それで色んなトコに行くんだ!
うん、いいよ!行こう、一緒にだね!二人で色んな人を助けるんだね
そう、二人で!約束だよ、エト!
うん、約束だね!
お互いの小さな指を組み合わせて交わした、幼い日の約束…。
「オレは……」
蘇る記憶、純粋な幼い願い(想い)。
―――――父サンミタイナ、キシニナルンダ…
「…パーン言ってたよね?僕は…覚えてるよ」
何かが、心の隙間から抜け落ちたような気がした。
エトは知っている…覚えてくれている。
幼い頃の、世迷言のような言葉を…。
「………………オレは、騎士になりたかったんだ…父さん、みたいな……」
呟くように…もしかしたらそれは、呻くようにだったかもしれない。
それでもエトは何も言わない…ただあの頃と変わらない、優しい瞳で見ていてくれる。
「……父さん、みたいな…」
噛みしめるようにもう一度呟いた。
―――――お父さんはね、とても立派な方だったのよ
優しい微笑み。
―――――結果的には色んなことを言われてしまったけれど…お母さんは、あの方について来てよかったと思ってる…
心の底からの、幸せそうな微笑み…。
―――――だからあなたも間違わないで。あの方の子として、堂々と生きて
自分は知っていた。
どんなに偉い人よりも、どんなに賢い人よりも…母の言葉こそが正しいのだと。
決して嘘をつかない母が、あの顔であの声で自分に告げた言葉だからこそ、信じようと思ったのだ。
そしてそう思い、何を言われても平気だと母に告げた…彼女を安心させるためだけの、その場限りの口実では無く、真実そう思ったから。
それなのに、人の心とは何と弱いのだろう…時が経つにつれ、その思いは不安の中に押し隠されてしまっていた。
「パーン…」
エトがパーンの背に優しく手を置く。
そこから伝わる、労わりの心…自分を信じ、彼の両親を信じ、そして自らも信じてくれる、温かい心。
不安も恐れも悲しみも、そして憎しみすらも流れ落ちていく…全ての負の感情が消え去った。
「………エト、オレはもう負けない。そして…誰にも負けない騎士になる。そしていつか……」
真実を知る。
信じないわけでは無い。ただ、何があったのかが知りたかった。
盲目的に信じるだけでは無く、その汚名を晴らせるように、胸を張ってテシウスの子と言えるように…真実を知るために歩き出そうと決めた。
それがエトに届いたのか、彼はにっこりと微笑んだ。
「…そうだね。…うん、がんばってよ。パーン」
二人、顔を合わせて微笑み合う。
それは、春の女神の吐息が世界を潤す、爽やかな昼下がりの出来事…。
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