序章










 厳粛なまでに静寂な神殿の最奥…そこで一心に紙に祈りを捧げる男がいた。

 美しく豪奢ではあるが、決して派手ではない装いに身を包み、胸にはファリスの司祭級以上の者だけに許されるファリス神の印の彫られたペンダントをつけている。
 熟練された神官ならば、その男の内に宿る自愛に満ちた大いなる神の力を感じることが出来るだろう。
 彼は実力だけで言うならば、ファリスの大司祭、またはそれ以上の力がある。
 だが彼はこの神殿に使える者では無かった。何故ならば彼は…。

「陛下、お時間でございます…」

 遠慮がちに近衛の者が近付き声をかけた。

「…分かりました。すぐ参ります」

 少し間を置き、彼は静かに答えた。

 そう、彼はヴァリスの神官王エトなのである。

 エトは立ち上がり、物言わぬ神像を見上げた。
 そして深く一礼し、ファリスの印をきる。それからもう一度だけ神像を見つめ、思いを断ち切るように踵を返して神殿を後にした。

 外で控えていた十数人の近衛兵達がそれに続き、騒々しい幾つもの足音が遠ざかると、神殿はいつもの静けさを取り戻した。

 

 






 長の謁見を終え、 中庭に面するテラスでエトはやっと一息つくことが出来た。
 扉の近くには数人の聖騎士達が厳かに控えている。

「ふぅ…やれやれ…」

 始終兵達が自分の周りにいることには、この十数年で何とか慣れては来たが…自由時間位は流石に一人でいたかった。
 エトはアラニアの片田舎で生まれて以来、いわゆる『庶民』という階級の中で結構自由に育って来た。故に他人にかしずかれて暮らすことなど夢にも思ったことは無く、四六時中他人の視線に曝されながら過ごすのは…思った以上に精神的に辛い。

 ただ、礼儀作法等は元々パーンの母親に教わっていたことや、神官修行時代にみっちりと叩き込まれていたこともあって、そういった意味で緊張したり恥をかくことは無かったが、もしあのまま村にいたとしたらどんな目に合っていたか…考えるだけで恐ろしい。
 いや、仮にそうだったとすれば、エトはこの地位にはいなかった。
 だがきっと、もっと違う形でこの国に関わっていただろう…。

 パーンという男がいる限り。

 しかしそう考えると、今のこの状態も彼の幼馴染として育った彼の運命だったのかもしれない。
 それなのに、自分をこの世界へと導いた張本人は、今もこのロードスのどこかを駆け回っているのだろうかと思うと、少々羨ましくもあり妬ましくもある。

 空を見上げれば太陽は中天を越え、陽射しは幾分柔らかみを帯びて来た。
 目を光らす衛兵達に咎められる事無く訪れた訪問者が、愛らしい声でさえずりながら庭の木の実を頬張っている。
 仲間達と歌を歌い、空を駆けてはまた舞い戻り…自由気ままな小鳥達の姿は、忙しく日々を過ごすエトの心に安らぎを与えてくれる。

 既に冷めかけた紅茶を一口飲んでティーカップを置き、そのまま静かに瞳を閉じた。

 ヴァリス産の紅茶独特の良い香りと、樹木や土の香りが風の中で交じり合って優しくエトを包み込む。
 悪戯な風の精霊(シルフ)がふわりと髪を舞い上げて微笑んだ。
 昔と変わらず真っ直ぐに伸びた黒髪は肩と腰の中間辺りまであり、即位前よりも幾分か痩せた彼の優美な容貌を際立たせていた。

 ディードリットのおすみ付きでもある彼の整った容姿は、本人は全く気づいていないが、今や宮廷女性等の憧れの的で、神官でもある彼の万人に対し寛容で寛大な態度は臣下や国民にとっては理想でも、時として王妃フィアンナの機嫌を損ねる事態に発展することもごく稀にある。
 自分以外の誰にでも優しい夫に対する『やきもち』が原因なのだが、エトには王妃の不機嫌の理由が分からず、訳も分からず宥めるしかない彼の姿は、『愛妻家』としてもしられるヴァリス国王の微笑ましい珍事として各国に広く知られていた。

 と言っても、実はその昔笑い話としてパーンとディードリットにした話が、彼等がフレイムでカシュー王との茶飲み話にしてしまい、それをカシューが各国に広めてしまったのが事の発端だか…そのことでパーンが後々エトにお仕置きを受けたかどうかまでは、定かでは無い。
 フレイム王カシューは、自分には関係の無い、人の楽しい話にはめっぽう口の軽い人なのだった。

「…あなた」

 甘い春風のような優しい声に、エトははっとして目を開けた。

「フィアンナ!起きても大大丈夫なのですか!?」

 驚いて立ち上がり、妻の元へと駆け寄る。
 この三日ほど体調を崩し床に伏せていたはずの王妃の姿に驚くが、少々やつれはしたが、彼女の持つ美しさは少しも損なわれていない。
 顔色も思ったよりは良く、エトをほっと安心させた。

 彼女が伏せている部屋に、忙しい公務の間をぬっては、毎日両手いっぱいの花束を届けていたヴァリス国王の逸話は、またその内各国で微笑みと共に語られることになるかもしれないが、今はまだ側仕えの者達だけが知っているエピソード。
 そしてそのことが、彼女の回復力を上げさせたのも確かなことだろう…。

「…よかった。…もうお加減はよろしいのですね?」

 エトがふわりと微笑むと、フィアンナは恥かしそうに目を伏せる。

「はい。ご心配おかけして申し訳ありません…」
「いいえ…いいえそんなことは…。貴女が元気になられて、本当に良かった…」

 微笑みながら差し出された手に、王妃は嬉しそうに自らの手を重ね、促されるまま引かれた椅子に腰掛けた。
 久しぶりに動き疲れたのだろう、小さく息をついて椅子に体を預けている。
 エトは片手を挙げ、控えていた騎士と侍女達を下がらせた。

「本当に大丈夫なのですか?」

 確認の意味を込めて王妃の瞳を覗き込む。
 今朝の祈りは、妻の病が早く癒えるようにと神に捧げたものだったのだ。

「まあ。司祭様ともあろう御方が、妻の言葉をお疑いになりますの?」

 くすり笑いながら答えたフィアンナの言葉に、エトは驚いて目を見張ったが、直ぐにゆったりと微笑んだ。

「…そうでしたね。人を疑うことは、我信仰神ファリスの最も嫌うところでした」

 最愛の妻に懺悔し、そっとその肩に手を乗せる。
 フィアンナがエトの顔を見上げ、二人の顔がゆっくりと近付き重なり合う。

 陽だまりの中、ヴァリス国王夫妻は幸せの時を刻んでいた。

 

 この光景を…二十年前、いったい誰が想像することが出来ただろうか…。

 





つづく

 



TOPページへ 一章へ