窓の外から聞こえるざわめき。
秋の気配を感じさせる、冷たい風。
夏ももう終わり、二度と来ない一度だけの秋が来る…。
毎日届けられる複数のメールに返事をすることは、もうとうの昔に出来なくなっていた。
それでも、ただの一度も欠かされたことの無い近況報告に…心だけが彼等の元へと駆け出して行く。
答えは出ている。
決心もついた。
ただ、会いたいから。
理由はそれだけでいい…。
カチャリ…と扉が開き、美しく活けられた花瓶を抱えた少女が入って来た。
「あら、お兄ちゃん。今日は顔色がいいわね」
嬉しそうに笑った妹に、彼も優しく微笑みかける。
その様子に、彼女は急いで傍らに花瓶を置くと、彼の横たわるベットの端に腰掛け、彼の顔を覗き込んだ。
「…ヒカリ」
「なあに?」
自分の額との熱を比べ、さほど高くないことに安心する妹に、彼は静かに伝えた。
「…帰ろう…日本に」
太陽に透けるような微笑は何処までも淡く…ただ、ただ…愛しさだけが、そこに溢れていた。
一年と半年程前のこと。
その数ヶ月前から、何となく異変を訴えていた彼の体は、突然彼の言うことを聞かなくなった。
伝達が隅々まで行き渡らず、手先が震え、物を考えるのが億劫になり、痙攣やひきつけを起こし…頭痛が激しく彼を苛めた。
そして、それに伴う嘔吐と吐き気…。
もはや、普通の病気には見えなかった。
そして、それを肯定した病院。
日本の医学では治療は不可能とされ、比較的それの研究が進んでいるアメリカならば…という話が出た。
八神家は一も二も無くその案を飲み、家族揃ってかの大陸へと渡ることを決めた。
宣告を受けた半月後、彼は家族と一緒に空港で仲間達と向かい合っていた。
一様に複雑な表情を浮かべる彼等に、彼はそれでも笑って見せる。
「…悪いな。突然こんなことになっちまってさ…」
「太一さんが謝ることではありません。…一刻も早く、元気になって帰って来て下さい」
「そうよ、太一。あたし達…ここであなたを待ってるんだから…!」
「ああ…サンキュ…」
縋るような後輩と泣きそうな幼馴染。
彼等の心の中にあるのは、漠然な不安とやり場の無い憤り。
どうして?
どうして彼が、こんな目に会わなくてはならないの?
誰に言うわけにもいかず、言ったからといって何の解決にもならない…彼を追いつめるだけの言葉。
今でも彼は心を痛めている。
自分を心配し、心を痛めている仲間達を思って傷ついている…。
「…太一」
「ん?」
ヤマトの呼びかけに、太一が軽く顔を上げる。
「毎日、メール書くよ」
「…無理すんなよ、忙しいんだから」
「いや、絶対に出す。一行でも、一言でも…どんなにつまんないことでも、お前にオレを届けるよ」
「……ヤマト…」
彼の顔がくしゃりと崩れる。
泣くかと思った…でも彼は、泣かなかった。
彼が一番不安なのだ。これから、先の見えない戦いに踏み出して行くのだ。
自分達に出来ることは、ただ信じて待つだけ。
「…じゃあ、行って来るよ」
「……ああ」
短い抱擁の後、それでもしっかりと心を繋いで、彼はゲートをくぐって行った。
「ヒカリちゃーん!太一さんをよろしくねーっ!」
「早く帰って来て下さいねーっ!」
口々に手を振り叫ぶ後輩達を横に、彼等は静かに大切な彼を見送った。
彼に届くように、自分達に言い聞かせるように…ただ一つの言葉を呪文のように心の中で呟きながら…。
大丈夫、大丈夫。
彼は必ず帰って来る。
彼が帰って来る場所は、自分達の所しか無いのだから。
展望台に登り、彼等の乗った飛行機が飛び立ち、そして見えなくなった後も…彼等は動くことが出来なかった。
いつまでもいつまでも空を見つめ、祈りを込めた手を合わせたままで…。
それでも、その時はまだ、彼は自分の足でこの国を出て行ったのだ…。
そのメールに気づいたのは、学校から帰ってから直ぐ。
返事が無いことを半ば諦め気分で悟っていながらも、この一年ずっと続けられている習慣。
初めの半年は、それでも返事はあった。
それが次第に減って行き、今では本当に極たまに、ほんの短いメールが返って来るのみ。
それでも続けて来たこの習慣が、たった一通のメールで希望色に一気に染まった。
『明日、午後3時着の飛行機で帰る。 太一』
心が奮えた…この一年半の間、片時も忘れたことの無い面影が記憶の中から微笑みかける。
やっと会える…やっと帰って来る。
はやる心を押さえ、仲間達に連絡しようと携帯を手にしたその時、調度タイミング良く着信のメロディーが流れた。
表示されたのは見慣れた名前。
「光子郎?どーしたんだ、今太一からメールが来て………え?」
電話の向こうは、喜びを分かち合うにはかけ離れた雰囲気の彼。
ヤマトも彼の言葉を聞く内に、先程まで心に満ちていた幸福感が一気にしぼんで行くのが分かる。
「……何だって…?」
携帯を持つ手が震える…思考が定まらない。
光子郎の声は聞こえているのに、その言葉の意味が理解出来ない。
『僕の方にもヒカリさんから連絡がありました。太一さんの病気は治ったわけでは無いそうです…もう…治療のしようが無いんだそうです…』
元気になって帰って来るのだと…何もかも、元通りになって帰って来るのだと、そう信じて送り出したあの日。
彼が元気になるのならどれほど遠くに離れていても平気だと…これから先の未来のために、今、ほんの少しの間だけの別離だと言い聞かせて来た一年半。
それが…。
『……だから、帰って来られるんだそうです…』
一年半前この場所で彼を見送った時よりも、更に複雑な表情をした仲間達が集まっていた。
だが、彼の帰還に誰一人欠けることも無く、嬉しいのに喜べない…何を話せばよいのか、それすらも分からずに…ただその時が来るのを待っているしかなかった。
アナウンスがかかり、ゲートから次々と荷物を転がす人達が降りてくるが、中々彼の姿は見えて来ない。
心臓だけが早鐘を打つように動いているが、その他の全ての機能は麻痺してしまったかのように感覚が無い。
この気持ちを例えるならば、『怖い』という感情が一番近いのかもしれない。
会うのが怖い。
顔を見るのが怖い。
何と言っていいのか分からないのが…怖い。
「あ、ヒカリちゃん!」
「え!?」
大輔の声に、全員の気が一定の場所に向けられる。
人ごみの間から、少し大人びた彼女の顔が見えた。
「……太一…は?」
空がいぶかしむが、彼等の目にはまだヒカリの側に求める姿を見つけることは出来ない…。
「……………!」
人ごみが晴れて彼女の姿が明らかになる。それに合わせて曝された真実。
ヒカリは仲間達を見つけると、ゆっくりと彼等に近付き頭を下げた。
「…皆さん、お久しぶりです」
「…………」
返す言葉は無い。
ただ目線だけが下を向き、そこにいる見慣れた…そして見慣れぬ彼を見つめ続けた。
「………久しぶり、皆。……元気そうだな」
はんなりと笑った姿に涙が溢れた。
「…………太一…!」
自分の足で立つことも出来ないのだろう車椅子に座った彼は、記憶の中の彼とは比べ物にならない位に痩せてしまい、それでも瞳の温かさは変わらない。
太陽のような笑顔も、優しい声音も何一つ変わらない…ただ、姿だけが信じられない位に弱々しい。
だけど…それでも…!
「…お帰りなさい…太一!」
「太一さんっ!」
空と光子郎が流れる涙を拭おうともせずにっこり笑い、そして耐え切れずに彼にしがみついた。
それに続いて他の仲間達も太一とヒカリに駆け寄り、人目も憚らずに泣き崩れた。
病気も、その痩せた姿も関係無く、今は自分達の所に帰って来てくれたことが純粋に嬉しい。
全ての現実に蓋をして、それでも、今目の前の彼が帰って来てくれた事実だけを喜びたかった。
そんな中、その光景をどこか遠くで見ているように…微動だにせず立ち竦んでいたヤマトがいた。
自分を抱きしめる仲間達の隙間からそんな彼を見つめ、そして交わった瞳を断ち切るように彼が踵を返して去ってしまうのを…太一は何の感情も篭もらない瞳で見送った。
見送るしか…出来なかった。
元の家は渡米する時に引き払っていた。
太一の車椅子にも対応出来るマンションを借り、八神夫妻は先に帰国して生活の準備をしていた。
太一の車椅子は電動型で、手元のスイッチで割と小回りまできくタイプらしいのだが、その仕種ですら太一には疲れになり、そんな彼にヒカリは始終付きっきりの状態だった。
しかし、彼女はその状態に全く不満は無く、逆にずっと兄の側にいられて嬉しいと微笑む。
何もかも変わってしまった彼の周りの状況に、仲間達は小さな戸惑いを覚えながらも…時間のある限り、彼と共に過ごすために八神家に集まっていた。
ただ一人、ヤマトだけを除いて…。
彼は空港に太一を迎えに来て、話もしずに帰ってしまってから一度も連絡が無い。
仲間達はそれを気にしながらも太一が何も言わないので黙っていたが、時折見せる、力無い寂し気な表情に苛立ちだけが募っていった。
八神家のリビングでの団欒の中、突然立ち上がった光子郎に太一が声をかけた。
「…僕、少し出て来ます…」
何かを決意したような、そしてとても怒っているような彼には珍しいその表情に、その場にいた者達には何となくその行き先が予測つく。
「…光子郎…放っておけばいいじゃないか…」
「いいえ。僕が我慢ならないんです…行って、一発殴って来ます」
「光子郎…でも」
「そうね、光子郎君の言う通りだわ。私も一緒に行くわ」
「それじゃ、締め出し食らわないように僕も行くよ。兄さん家の鍵持ってるから」
「空、タケル…」
腰を上げた彼等に太一は困惑した視線を投げるが、空は反対に優しい瞳で太一を包み込む。
「…太一。ダメよ、無理しないで。…会いたくて、帰って来たんでしょう?」
「……空…」
空の両手が太一の頬を包み、目線を合わせその心まで覗き込む。
いつもギリギリの所で助けてくれる、幼馴染。
彼女に嘘はつけないし、つきたくも無い…それに、今更そんなもので隠し立てした所で、彼女に通じるはずも無い。
「…うん。話したいことがある。…一つだけ、伝言してもらっていいか?」
「ええ」
空が頷くと、太一は深呼吸して…今度は目を合わせられずに呟いた。
「ヤマトに……オレは、二・三ヵ月後にはもういないから…だから、会う気があるなら…その前に来てくれって…」
息を飲む。
うすうす感じていても、はっきりと言葉で聞くのは初めてだ。それも…こんな形で…。
「……頼む」
目を反らしたままの太一…全身が小さく震えている。
この言葉を言うのに、どれだけの勇気と苦痛を必要としたのだろう。
「…分かった。…直ぐ、直ぐに帰って来るから!行きましょう、光子郎君、タケル君!」
「あ、はい!」
バタバタと出て行く三人を見送り、残された後輩達が呆然と自分を見詰めている瞳に微笑みかけた。
「…た、太一先輩…」
大輔の顔が歪む。
賢も京も伊織まで、言葉も無く彼を見つめる。
「…ごめんな。もう、オレに時間は無いんだってさ…」
こんな時にまで笑う彼。
そんな彼を、後ろからヒカリがゆっくりと抱きしめる。
どうして?
どうして?
どうして…?
鍵が掛かっているはずの玄関の扉が勢いよく開き、聞き覚えのある声と共に複数の足音が乱入して来た。
「……空、光子郎…タケルまで…」
「勝手に邪魔したわよ。…昼間っからお酒?いいご身分ね」
ゆっくりと顔を上げたヤマトの傍らには、幾つもの缶ビールの空き缶が転がっていた。
「…放っといてくれ」
「ええ。本当は、全然これっぽっちも関わり合いたくも無いんですが、こちらも仕方無く来ざるを得なかったんです」
「兄さん…自分のやってること分かってるの?」
怒りに震える三人に、自暴自棄気味のヤマトは興味無さそうにふいっと瞳を反らした。
その様子に、一番初めに切れたのは空だった。
つかつかとヤマトの元まで行き、胸倉を掴むと渾身の力を込めて平手を浴びせた。
「……目が覚めた?何なら、もう一発お見舞いしてあげましょうか!?」
「何すんだよっ!?」
あまりのことに叫んだヤマトは、空を見て続くはずだった言葉を飲み込んだ。
彼女は、手を振り上げながらぽろぽろと涙を零している…そして、その振り上げた手を握り締め、ゆっくりと降ろし…しかし、その押さえられぬ激情のままにヤマトの胸に叩きつけた。
「なんでっ、なんであんた、そんなに変わんないのっ!?昔から…全然変わんないじゃないっっ!!」
「…空…?」
「なんで、いつもいつも、そーやって太一を苦しめるのよっ!?」
「空さん…!」
泣き崩れる空に後ろから光子郎とタケルが寄り添って、やんわりと彼女を止める。
それを呆然と見ていたヤマトだったが、彼女の真意が掴めずむしょうに怒りが込み上げる。
「…お前等は、いつだって太一の味方なんだよな…帰れよ。お前等に置いてかれるオレの気持ちは分かんねーよっっ!!」
「じゃあ、あなたは『置いて逝かざるを得ない太一さんの気持ち』は分かるんですか?」
激昂したヤマトに、光子郎が冷たく言い放つ。
「別に太一さんが望んだわけじゃない。否応無く置いて逝かざるを得ない太一さんの気持ちを…考えたことがあるんですか!?」
「…え?」
「勘違いしないで下さい。置いて逝かれるのはあなた一人だけじゃ無い。僕等皆そうなんです。僕等皆が太一さんを愛してる!だけど…太一さんは優しいから…だから…」
「兄さん勝手だよ!僕言ったよね!?太一さんとつき合う時に、『太一さんを泣かせたら絶対許さない』って!なんで太一さんを泣かせるの!?」
想像したことが、無かった。
あの日空港で見えた太一の瞳は、何の感情も浮かんでおらず…その奥に隠している想いになど、考えが及ばなかった。
「あんたっていっつもそう!自分のことしか考えてなくて、自分だけ可愛くて、自分さえ良ければいいのよっ!まともに動くことすら出来ない太一が、毎日どんな想いであんたを待ってるか、考えたことある!?太一は動けないんだもの、ヤマトから行ってあげなくてどうするのよっ!!」
「………」
「太一は逃げなかったわ!病気からも、現実からも、あたし達からも、自分からも!全部受け入れて帰って来てくれたのよ!?ホントはあんな痩せ細った姿、誰にも見られたくなかったはずよ?食事も着替えも、何一つ自分の力で出来ない姿なんて、誰にも見られたくなかったはずなのよ!それでも帰って来てくれたわ!あたし達との約束を守るために!誰にも知られず、あっちで終わらせることだって出来たのにっ!!なのに、何で今一番側にいてほしいはずのあんたが、太一から目を反らすのよ!?どうして太一から逃げようとするの!?」
「…太一から…逃げる…?」
「そうです。あなたは逃げてるだけです。太一さんは、病気と戦うのを諦めて帰って来たんじゃありません。もう…出来得る限りのことはやり尽くし、他にどんな術も無く…ただ死を待つよりはと、果たせ得ないあなたとの未来をほんの少しでも掴むために…帰って来てくれたんじゃ、ないんですか…?」
「…諦めたんじゃ…無い…?」
「…太一さんは、絶対諦めたりしないよ…それは、兄さんだってよく、知ってることじゃない」
思い出すのは、太陽のような笑顔。
いつも笑っていて、仲間に囲まれていて、自分の持っていない…自分が欲しいと思うもの、全てを持っていると思っていた彼。
でも違っていた。
彼は彼なりに苦しんで、それでも逃げずに戦っていたのだと…知った。
それなのに、自分は『自分の道を見つけたい』なんてそれらしい理由をつけて、結局は全てを彼に押し付けて現実から逃げ出したのだ。
それなのに…そんな自分を信じて、どんなに傷ついても、ただひたすらに待っていてくれた彼…それがどんなに嬉しかったことか…。
なのに今、自分は同じ事をしようとしていたのだ。
真実から目を反らし、逃げ出した。…彼は、自分を信じて、待っていてくれているのに…!
「……太一…太一ぃ……っ!」
嗚咽と共に零れた涙。
頑なだった心を解かし、迎えに来てくれるのはいつもこの仲間達。
一人じゃ無い。
一人なんかじゃ、無い…置いて逝くのも、置いて逝かれる事実も…一人きりのことでは無い。
それがようやく、本当にようやく…理解することが出来た。
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