誰だろうと顔を上げかけ…。 カシンっ…! 小気味良い音の後、真っ二つに分断された缶ペンとシャーペンや色ペンだった物がばらばらと彼の机の上に散らばった。 「………」 一拍置き、それをしてのけたであろうナイフが机に刺さった。 朝の喧騒に賑やかだった教室は、し――んと静まり返っている。 「ヒ…ヒカリちゃん…」 にっこりと微笑んだ顔は、鼻面にナイフを突きつけられているような恐怖を錯覚させた。 「理由を聞かせて頂きましょう」 机に刺さったままのはずのナイフが、やけに大きな存在感を伴ってヤマトの精神を襲う。 「女性の頬を殴り、泣かせた挙句、その後電話も無く、直接来るでも無く、一晩たった今でも何の音沙汰も無く、謝罪すら無い理由です」 わざと『姉』では無く『女性』という言葉を使い、世間一般の常識に照らし合わせる様に投げかけられる言葉に、ヤマトは返すものが無かった。 「……お姉ちゃんは、あなたが来てくれるのを…ずっと待ってました」 太一は、待っていたのだろうか…開かれない扉を開けて、自分が迎えに来るのを…。 「…ちなみに、空さんと光子郎さんとタケル君は、流石のあなたでも行動するだろうとうちのマンションのエントランスにいました」 彼等ですら気づいていたというのに…。 「…何もおっしゃらないということは、姉との関係を切りたいと思っても、いいんですね?」 言葉に詰まり俯くヤマトを、どこまでも冷たい、鋭い視線が容赦無く射抜く。 確かに、偽装交際の時はもちろん、本当に付き合いだしてからも不満そうな声やデートの邪魔等はしても、別れさせられそうになったことや、それに続く不穏な発言だけは一度も無かった。 ヒカリが出てくれば、太一に二度と会わせてくれないかもしれない。 これはついさっき自分で考えていたことだ。 「…何をすればいい?どうすれば、太一に会わせてくれる!?」 机に頭を擦り付けんばかりに下げ、最後のチャンスを請う。 「…では、そのナイフを貸して差し上げます」 ヒカリの言葉に頭を上げる。 「誠意を見せて下さい。小指の一本でも切り落とせる位の」 教室の空気がざわりと揺れる。 「それが嫌なら、そのナイフで私を倒して行けばいい。お姉ちゃんに会うための一番の障害は私でしょう?どちらでも、お好きな方をご自由に」 ぴんと張り詰める空気の中、ヤマトはゆっくりとナイフを手に取り引き抜いた。 「…小指一本でいいんだな?」 「石田!?」 遠巻きに見守っていたクラスメイト達が、ヤマトに駆け寄ろうとする。 「色々支障も出るでしょうし、根元からだと切り難いでしょうから、第一関節まででよろしいですよ」 慌てる級友達とは対照的に、落ち着き払ったヒカリの姿。 「…約束は守れよ?」 頷いた真剣な瞳に、今一番会いたい瞳が重なった。 周りで悲鳴が上がった。 ゴツッ……!
「………え?」
机に当たったのはナイフの柄だけ。 「…ありがとうございます。…その覚悟が欲しかった…」 顔を上げると、先程とはうって変わった…嬉しそうな笑みが見返していた。 「うちの鍵です。…お姉ちゃんは、一歩も動けずに家にいます。…姉を、姉をよろしくお願いします…」 心配そうな視線を窓の外に送り、そして深々と頭を下げた。 「ありがとう、ヒカリちゃん!」 荷物もそのままに走り出したヤマトを見送り、ヒカリはそっと溜め息を零した。 「お疲れ様、ヒカリちゃん」 くすりと微笑んで、傍観を決め込んでいた彼の弟を見る。 「仕方ないよ。お兄ちゃん『超』がつく鈍感だもん」 実の兄に対するあまりな評価に、ヒカリは楽しそうに相槌を打つ。 「だけど、ホントに指切り落としちゃったらどうしようかなって、少し思っちゃった」 その言葉は甚くヒカリのツボにハマったらしく、一しきり楽し気な笑い声を上げた後、太一によく似た、花のような微笑を向けた。 「違うわタケル君。お姉ちゃんが泣くからよ」 成る程…と思う。 太一が望んだからヤマトとの交際を容認した。 全ては、太一のため。 きっと、太一のためでなければヤマトに渡したのは本物のナイフだったかもしれない。 偉大な人だ。 「それじゃ、僕等も教室に戻ろうか」 にっこり笑って退場して行く一年生の名物カップル…受験を控えた先輩諸君はそれを呆然と見送り…冷静を取り戻すため、覚えたばかりの単語や公式を、ホームルームが始まり担任が入ってくるまで、延々呟いていたという…。 エントランスホールで凭れていた二人は、ヤマトの姿を見つけると溜め息をついて歩いて来た。 「…空、光子郎…」 「遅いわよ、二度目は無いと思ってね?…太一が待ってるわ」 二人はすれ違い様にヤマトの肩を軽く叩くと、そのまま学校に向かって行ってしまった。 「すまん…ありがとう…!」 一度だけ去ってしまった仲間を振り返り謝辞を送ると、今度は振り返らずに太一の元へと向かった。 鍵を開けるのももどかしく、ようやく開いた扉を勢い良く開ける。 家に入ろうとして…探すまでも無く見つかった姿に、ほっとするより驚いた。 「太一!?」 同じように驚きで瞳をいっぱいに開いた太一がヤマトを凝視した。 次の瞬間、弾かれたように靴を脱いで奥に逃げ込もうとした太一の腕を、一瞬早くヤマトが掴んだ。 そして、じたばたと暴れる太一を男女の体力差の優位に立って繋ぎ止め、扉を閉めて鍵をかける。 「太一!」 強く名前を呼ぶと、太一はびくりとして動きを止め、張っていた肩からも力が抜ける。 「…太一?」 返事は無い。…ただ、つないだ腕から、彼女の緊張が静かに伝わる。 「太一…こっち向けよ…」 出来るだけ優しく、脅えさせることの無い様気をつけて声をかける。 「…ヤマト…」 振り返った太一に微笑みかけながら、昨日自分が叩いた頬を優しく撫でる。 「…痛かった…心の方が、痛かった…!」 閉じられた瞳からぽろりと涙が零れ、ヤマトと自分の手を濡らしていく。 「…ごめん…ごめんなさい、ヤマト…オレ、酷いこと言った…」 ふるふると頭を振った拍子に、涙が周囲にぱらぱらと零れ落ちた。 「ヤマトがバンドやってるのが嫌なんじゃ無い…かっこ悪いなんて、思って無いっ…オレ…」 言葉に詰まり、ただ涙だけが後から後から、溢れるように零れ落ちる。 「……オレっ、…ヤマトが、女の子に囲まれてるのを見るのが…嫌だったんだ…っ!」 搾り出すように言われた告白に、ヤマトは驚きを隠せない。 「頑張ってるヤマトが好きなのに…変わろうって努力してるヤマトを好きになったのに…っ、なのにオレは、他のたくさんの女の子の前で、ラブソング歌ってるお前なんて…見てられないんだ…っ!」 涙に濡れた顔を隠すように、それでもヤマトを離せないとでも言うように、震える手がぎゅっとヤマトの腕を抱きしめる。 「……オレを…嫌わないで…!」 初めて聞いた、太一の本音。 「太一…太一。ほら、顔上げてオレを見ろ」 抱き込まれている腕ごと、しっかりと太一の顔を包み、目線を合わせる。 「…太一が好きだ」 たった一人の前でだけ、絶対に嘘をつけない自分でありたい。 「太一が好きだ。ずっと好きだった…これから先の、未来まで…ずっとだ」 見開かれた瞳から、大粒の涙がヤマトの手を伝い落ちた。 「……ありがとう…ヤマト…」 その微笑こそが、ヤマトの一番の宝物。そして、それを自分が導き出せたということこそが、彼の一番の誇り。 「…大好き…!」 心が満ちていくのが感じる。 ヤマトは、幸せと言う言葉と共に、最愛の人を抱きしめた。 「ヤ〜マト♪屋上でお弁と食べよv」 愛らしい微笑を浮かべる彼女に、いそいそと向かうヤマト。 「…い〜なぁ〜…」 怖いお目付け役がいることだし…と、心の中で皆が同じ事を考えたが彼等には預かり知らぬこと。 「羨ましいよなぁ〜…」 級友だけでなく、道行く日人々が同じように溜め息をついていることも、彼等には関係無い…たぶん。 「おまたせ〜♪」 にっこり迎えたメンバーに、太一は当然のように入って行く。 「お兄ちゃん、浮かない顔だねv大体察しはつくけどさ♪」 相変わらずきっつい弟妹達に、幸せ気分を一気に吸い取られてしまったようなヤマト。 「そうそう簡単に幸せボケにはさせませんよ。ヤマトさんは気を抜くと、す〜ぐ墓穴を踏みまくりますから」 囁かれたお目付け役のお言葉は、胸に染み入るお説教。 「用意出来たぞ、皆♪」 「いただきま〜す♪」 全員の箸が一斉に元気良く動き出す。 「はい、ヤマトvあ〜んv」 周囲の気温が一気に下がる。 「美味いか?」 天上から照らす太陽に、少しの引けも取ら無い最上の笑顔。 「お姉ちゃん、そっちのきんぴらちゃんと味染みてた?」 と、同じように食べさせる。 「こちらのおにぎりもいい塩加減ですよv」 と、手では無くそのままぱく。 「太一、こっちの出汁巻きサイコーよv」 と、空の箸から直接ぱっくん。 「太一さん、僕この鳥肉の味付け大好きですv」 と、無邪気に喜んで見せる弟。 「………お前ら、わざとだろう…?」 見事にハモった一同は、『悪巧みしてます』と書いてある笑顔をヤマトに向ける。 「なぁ、ヤマトはどれが一番美味しかった?」 にっこりと顔を覗き込んで来た太一の、言外に潜ませた『また作ってくる』の意味に、心が浮き立ち、顔が綻ぶのが止められ無い。
彼女がいて自分がいて、仲間達がいるから『現実(いま)』がある。 いつだって『幸せ』と『悲しみ』は背中合わせで、だけど、ちょっとしたきっかけで輝くような幸せを手にすることも出来るのだ。 それを逃がさないために…彼女と彼女等の戦いは、まだまだ続く。 |
おわり |