最近……八神太一が可愛い。
いや、元々膨大なストーカーを抱える身である彼女は性格はもちろんのこと、容姿に至っては問題に上げるのも馬鹿らしいほど、百人いれば百人が『可愛い』と断言してしまう愛らしさ。
故に今更それを上げる謂れは無い…無いのだが、あえてここに上げておこう。
八神太一が、以前に増して尚更可愛い…と。
朝練の後、太一はいつも通りに教室に戻ろうとして見慣れた背中を見つけた。
自分には全く気づいていない様子の彼に、悪戯心がむくむくと膨れ上がる。
彼の隣の者達の顔も見覚えがあり、雰囲気も穏やかで、自分が乱入してもさして邪魔になったり不快を買ったりする感じは無い。
「太一?」
にやりと笑った太一に、彼女と同じく教室に向かっていた空が不思議そうに首を傾げる。
そんな空に、楽し気な笑みを浮かべたまま、口元に指を当て声を押さえるよう合図して前方を指す…その動きを追って、空が納得したように頷いた。
お互い手を上げるだけの挨拶を交わし、太一は助走をつけると、そのままの勢いで目標に飛びついた。
「…ヤぁ〜マトっ♪」
「!!!???」
前のめりに倒れそうになったヤマトを、彼にぶら下がったまま後ろに体重移動しバランスを整える。。
この辺りの小技は運動神経抜群の太一ならでわだが、抱き付かれているヤマトの方はそれ所では無い。
「たったたた、太一!?」
「ピンポーン♪あはははは!どっきり大成功〜v」
どもりまくりのヤマトをあっさり無視し、成り行きを見守っていた空を振り返ってVサインを送った。
ヤマトは、背に残る柔らかな温もりに顔を赤らめ、声を殺して笑っている空を軽く睨む。
彼のバンド仲間に至っては、あまりの出来事に真っ赤に顔を染めたまま硬直していた。
「今日も朝から元気に歌ってたか?」
「……何か、ひっかかる言い方だな…?」
「だってオレ、バンドやってるヤマトかっこいいと思わないもん」
きっぱり言い切った太一に、ヤマトは一瞬頭の中が真っ白に燃え尽きた。
「た、太一!あんまりヤマト、虐めないの!」
と言いながらも、目に涙を溜めて肩を震わしている空…面白がっているのは一目瞭然だ。
「別に虐めてねーよ。それに…サッカーしてるオレは『かっこいい』って皆言ってくれるぜ?」
「………」
比べる方が間違っている。
太一が言いたいことは、『何かに打ち込んでいる姿は誰でもかっこいい』ということなのだろうが、生憎、太一だけで無く空もヒカリも光子郎も、バンド活動をしているヤマトをかっこいいと思ったことは過去一度も無い。それ故にあまり強く太一を窘められなかった。
実は、ヤマトにたくさんのFANがいるということすら不思議に思っていたりする。
ヤマトとて容姿は上級だし歌も上手い。そんな彼にFANの十人や二十人ついても、世間的には何の不思議も無いのだが、何せ彼女達はそれ以上のカリスマを目の前にしているので、ヤマトの魅力がちっとも理解出来ない。
そんな彼女等に、ヤマトのバンド仲間の一人が恐る恐る口を開いた。
「そ、それじゃ…八神さんは、バンド中のヤマトは…どういう風に見えるわけ?」
太一の大きな瞳が、きょとんと彼を凝視する。
彼の頬はみるみる赤く染まっていくが、太一は気にせず、ヤマトは未だ落ち込み中…。
「そーだな…軟派な軽薄野郎……かな?」
その言葉に潜む明らかな毒…それを正確に捉えたのは空一人。
ヤマトは言葉通りに受け捕らえ、暗黒の海へとずぶずぶと沈んでいく…。
「ほら太一。ホームルーム始まっちゃうわよっ!」
「ああ。じゃな、ヤマト」
「……ああ」
どんよりとした空気を背負いながらも、ヤマは何とか微笑んでみせた。
「あ、そだ。ヤマト、今日お昼一緒しよv」
「えっ!?」
「あ、先約ある?」
「無いっ!」
突然の誘いに驚いたが、太一がそう言ってくれる以上何を犠牲にしても断るはずが無い。
「良かったvじゃ、四時限目終わったらヤマトのクラスに迎えに行くから、待っててくれよ」
「え?オレが行こうか?」
「いい。オレが行きたいからvじゃな」
にっこり微笑んで彼に背を向ける。
それは正に大輪の花を思わせる、最上の笑顔。
一転して気分が急上昇したのだろうヤマトをちらりと目にし、その単純さに空は苦笑をもらす。
「迎えに来てもらったら?太〜一?」
「待ってる時間が嫌いなの!空知ってんだろ?」
からかいを含んだ空の声音に、太一は憮然と返して親友を睨みつけた。
世間的に『お付き合い』するようになったのは、既に半年近く前…だが、真実付き合いを始めたのは実は、ほんの一週間ほど前のこと。
うすうす気づいていたものの、太一からヤマトが好きみたいだと泣きながら相談を受けた時は、本当に驚いた。
何が驚いたといえば、太一が自分で自分の気持ちに気づいたことに驚いた…誰もが、何も言わなければ一生気づかないだろうと黙っていたことだっただけに、泣く太一を抱きしめながら、自分のことを棚に上げヤマトへの恨みが募ったことは記憶に新しい。
それからしばらくして…今まで見たどんな笑顔よりもその顔を輝かせ、空の胸に飛び込んで来たあの日が…彼等の始まりの日。
少し悔しいけれど、誰か一人のものになってしまうのは…ほんの少しだけ悲しいけれど、こんな笑顔を向けてくれるなら…小さな喜びと共に、まぁ、いいか…と思った。
「…何だよ、空。にやにやして…」
不審気な表情を隠しもせず覗きこんで来た太一に、回想に浸っていた空は慌てて口元を引き締める。
「なーんでもなぁい♪」
「??何?何でも無いって感じじゃねーぞ?」
「じゃ、秘密〜v」
「何だよ空ぁ〜??」
楽し気に会話しながら走って行く彼女等の後姿を眺めていたヤマトに、顔を赤らめた友人が囁いた。
「…八神の胸…柔らかかったか?」
「っ!!!」
ばっと背中を隠し、続けて一発…力の限り友人に正義の鉄拳をお見舞いした。
コメントしなかったヤマトだが…その真っ赤な顔を見れば、言わずとも感想の知れる所だろう…。
移動教室の途中のことだった。
ぴたりと歩みを止めた太一がくるりと反転し、そのままスタスタと進んで行ってしまったのを空は慌てて追いかけた。
「太一!?どうしたのよ!?」
「この道は嫌だ。向こうから行く」
「はあ?…なぁに、嫌いな人でもいた?」
「………空はそのまま行ってもいいぜ?」
「なぁに言ってるの。つき合ってあげるわよ」
世話のかかる妹をあやすように頭を撫で、空はにっこりと微笑んだ。
太一もつられたように笑顔を見せたが、直ぐにその顔が曇り、溜め息を落としてしまった。
「…太一?どうしたの?」
「……空…オレって嫌な奴だったんだ…」
「え?」
「…オレって…すげー我儘だったんだ…」
「太一…?」
今にも泣きそうな、太一らしからぬ様子を不審に思いながらも、空はその後何も言わない太一を、少しでも不安の薄らぐように抱きしめてあげるしかなかった。
それが、太一の出した…最初のSOS。
放課後、以前は校門前が待ち合わせの場所だったのだが、本当に付き合いだしてからは、部活の無い日は太一がヤマトの教室に迎えに行くことは珍しく無くなっていた。
この日も、並み居る羨望の眼差しに全く頓着せず、太一は軽くヤマトのクラスの扉を開けた。
「ヤーマト!帰ろ?」
「太一!」
太一の声に、呼ばれた本人だけでは無く、教室に残っていた全ての者が振り返り、多かれ少なかれ…その頬を一様に染めた。
太陽よりも眩しい微笑み…以前よりそう賛辞されること限りの無かったその笑みが、最近では更に磨かれ眩しいことこの上無い…。
例え彼女に好意を持っていなくとも、見惚れてしまうのもまた、自然の摂理。
それが、席に座っているヤマトの周りに見覚えある人物が揃っているのを見つけると、まるで太陽が陰ってしまったかのようにしゅん…と沈んでしまった。
「…今日、用事ある?」
「あ…ああ、すまん…。バンドの練習がな…ライブが近いから…」
「…そっか、分かった。先に帰ってる」
明らかにがっかりしながら、それでもにこっと笑ってみせる姿が健気だ。
寂し気な瞳も愛らしい…。
ヤマトは気づくと、帰りかけた太一の腕をしっかりと掴んでいた。
「…ヤマト?」
「あ、…いや、その…」
きょとんと見上げて来た瞳に、くらりとくるものを理性を総動員して繋ぎ止めながら、無意識に起こしてしまった己の行動をどうにかして理由をつけようと頭をフル回転させた。
「え、え〜と…た、太一も練習見に、来ないか…?」
どうにか出した結論は、陳腐な誘い文句の様で情けなかったが、実は前々から思っていた希望だっただけに、ついぽろりと口をついて出てしまった。
後ろから、仲間達の期待に満ちた視線を感じたが、言った言葉は戻せない。
「……いい。行かない」
「太一?」
「離せよ、帰る」
振り払われた手を呆然と見つめる間も無く、ヤマトは太一を追い駆けた。
「太一!!
」
「…っ何だよ!メンバー達が待ってるぜ?さっさと行けよ!」
「太一どうしたんだよ!?」
「何でもねーよっ!いいから、離せっ!」
再び取られた腕を力任せに振り払い、廊下の窓を背にヤマトと向き合う。
正面に立ったヤマトの戸惑いの大きい雰囲気が伝わり、太一は視線を足元に落とす。
「…太一。…前から聞きたかった。太一はオレがバンドをやっているのを、反対なのか…?」
「………」
「…だから、ライブに来てくれないのか…?」
「……もし、もしそうだったら…お前はどうするんだよ…?」
「え?」
俯いたまま、太一が小さく呟いた。
「もしそうだったら、お前はバンドを辞めるのか!?」
顔を上げ、睨みつけた瞳は…怒りというより憎しみに近かったかもしれない。
「出来もしねーくせに、聞くな!そんなことっ!」
「太一!?」
「そーだよ!オレはバンドやってるヤマトが嫌だ。虫唾が走る!」
初めに、中学に入ってヤマトがバンドをやると聞いた時は…とにかく驚いた。
動機を『誘われたから…』と答えた彼に呆れ、そんな理由でも手を抜かず一生懸命やっているのを見て…少しだけ見直した。
暇を見付けてはスコアを暗記している彼に、『何でそんなに頑張れるんだ?』と聞いてみた。
自分はサッカーが好きだ。
好きなものだから、自分が楽しめるように、そして皆が楽しめるように必死に居場所を作って頑張った。
だけど、自分から望んだものでも無いのに、何がそこまで頑張らせるのかがとても不思議だった。
彼は少し困ったように微笑んで…『変わりたかったから』と答えた。
『女の子にモテたかったのか?』と聞くと、脱力してへこみながらも『違う』と返って来る。
その様子に嘘は無いことは分かる…だが、彼がバンドを始めて変わったことと言えば、人を拒絶する雰囲気を持っていたのが少しだけ人当たりが良くなって、女の子にモテていること位だったから。
小学校の時は、女の子と口を利くのも嫌そうにしていた。
そんな中、男の子のようだった太一とだけは普通に話していた。
実は女だと気づいていなかったと告げられたのは、随分と後の話。
それが、バンドを始めて女の子にモテ初め…そんな取り巻きの彼女達を邪険にも扱わずに相手をしている…そんな姿を違和感と、ほんの少しだけ淋しい気持ちで眺めていた。
尚も食い下がる太一に、ヤマトは目を反らし…耳まで赤くして…『すぐ側に、すっげー頑張っている奴がいたから!』と言った。
瞬いた太一に、『本当は何でも良かった…バンドだったのは、歌は好きだったから調度いいと思って…女子サッカー部を創りあげたお前見て…オレも変わろうって思ったんだ』と、少し恥かしそうに告白する。
立ち止まらずに。
前を見て。
自分の力で変えようと…変えられるんだと…。
嬉しかった。
そう言われて、すごく、すごく嬉しかったのを覚えている。
けれど…そんな彼を見にライブに行って、思いがけず傷ついて早々に帰ってしまった、自分。
その時は、何故自分がそんなにも傷ついているのか、不快だったのか分からなかった。
理解したのは、自分の気持ちに気づいた時。
「へらへらして女の子に愛想振り撒いて…お前の歌より黄色い声の方が大きかったんじゃねーの?本当に歌聴いてんのかよ、あいつら!!聴かせる気があんのかよ、お前!?」
本当はこんなことが言いたいんじゃ無い。
四方から好奇心丸出しの視線も感じる…だけど、もう止まらない。
「バンドなんて言って、本当は女の子を釣るために…っっ!!」
頬に鋭い衝撃を感じて、言葉が中断させられた。
ゆっくりとその頬に手を添え、その熱さを自覚した途端痛みが襲った。
「あ…」
叩いた手もそのままに、ヤマト自身自分のやったことに呆然と立ち竦んでいる。
すると、太一の瞳からぽろぽろと大粒の真珠が零れ落ちた。
「た、太一!?」
慌てて伸ばされた腕を勢いのまま跳ね飛ばし、止まりそうに無い涙を拭こうともせず…。
「……ヤマトなんてっ………大っ嫌いだ――――っっ!!」
「ぐほっ!!」
言葉と共に繰り出されたのは、毎朝不埒者共を地に沈めている…鍛え抜かれた右ストレート。
見事鳩尾にヒットしたそれに、ヤマトは声も無く崩れ落ち、太一は踵を返して走り去ってしまった。
その横を複数の足音が通り過ぎ、それでもまだ顔を上げられないヤマトに、聞き覚えのありすぎる声がかけられた。
「…さっさと起きて、追い駆けたら?」
「……空」
声だけで分かる、その怒りの深さ…だが、今回自分に非は無いはずだ…そう思うのに、頭に浮かぶのは傷ついた太一の泣き顔…。
「追い駆けないの?」
「動けねーんだよ…まだ」
「嘘。その気が無いのよ。…話は聞かせてもらったわ。おかげで、太一がここの所ずっと悩んでいた理由が分かった…」
「…え?」
「…ヤマトは分からなかったの?太一があんなに叫んでいたのに」
「何が…」
空は溜め息をつくと、既に姿の見えない廊下の奥に視線を投げた。
「もう一度言うわ。ヤマト、追い駆けないの?」
「………」
「…いいわ。とりあえず、ヒカリちゃんや光子郎君達が後を追ってるから」
「…ほっとけばいい」
「馬鹿ね!忘れてるみたいだから教えてあげるわ!あんな太一街で一人にしたら、どんな奴に襲われるか分かんないじゃないっ!!太一のストーカーは減って無いのよ!?」
空の言葉にはっとして頭を上げる。
そして腰を浮かそうとしたヤマトを空が止めた。
「あの時点で追おうとしなかったあんたに、今太一を追い駆ける資格は無いわ。そこでいつまでもへたりこんでなさい…」
「空っ!」
「だけど!」
ヤマトに背を向けた空が、微かに肩を震わせた。
「…だけど、太一は追って来て欲しかったはずよ…本当に追って来て欲しくないなら…拳じゃなくて、足で攻撃していたはずだもの」
それだけ言うと、空も追うように駆け出して行ってしまった。
「………」
そうかもしれない…戦い慣れた太一のこと、拳が本気であったなら、ストーカー対策と同じように横っ面を殴られて脳震盪の一つでも起こされていただろう。
太一は…自分に追って来て欲しかったのだろうか…。
いつの間にか集まっていたギャラリーも散り、心配そうな表情のバンド仲間に促されても…立ち上がる気には、なれなかった。
小さなノックの後、静かに開けられた扉の向こうから、遠慮がちな声がかけられた。
「…お姉ちゃん…起きてる?」
「…ヒカリ…」
被っていた布団を少しだけずらし、逆光でよく見えない妹に瞳を向ける。
表情が分からなくても、その声だけでずいぶん心配させてしまったことだけは分かる。
「…今日…お夕飯食べて無いけど、お腹空いて無い…?」
「うん、いい…腹へって無いから…」
「そう…」
予想はしていたけれど、落胆も感じる…仕方の無いことだけれど。
「…ヒカリ」
「なぁに?」
離れ難くて扉を閉めれなかったヒカリに、太一は布団をずらして小さく微笑んだ。
「今日、一緒に寝よう?」
「え?いいの?」
「ああ…今、一人でいたく無いんだ…ダメか?」
「そんなこと無い!久しぶりだから、嬉しいよ?お姉ちゃん…」
太一の上げた布団の中に、ヒカリはするりと入り込んでにっこりと笑った。
「……サンキュ…ヒカリ…」
暗闇の中でもはっきりと分かる、太一の瞳。
輝いて見えるのは、そこに涙が溜まっているからだ。
今にも零れ落ちそうなほどいっぱいになっていながら、それでも気丈に微笑んでいる。
きっと、ずっとここで一人、声を殺して泣いていたのだろう。
…ただ、一人の人を想って…。
「…お姉ちゃん、大丈夫よ?…お姉ちゃんにはヒカリがついてるもん。ううん、ヒカリだけじゃない、空さんやタケル君や光子郎さん…皆がついてるもの…心配することなんて、無いんだから…!」
「…うん…ありがと…ごめんな…」
寄り添った体が、小さく震えているのが分かる。
自分の見えない所で、きっと泣いている。
自分のためにではなく、心配させた人、自分が傷つけたと思っている人を想って泣いている…。
ヒカリは、その姉の心に、気の遠くなりそうな怒りを越えて、一つの決断を下した。
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