誰もが夢の中から覚めきれぬ感覚の中、ただ、静かに時間だけは過ぎていく。


















 完全な居眠り運転による、過失だった。
 ブレーキすら踏まれずに突っ込んで来た車に対して、死者は一人だけ。後は脳震盪と軽い骨折、又は打撲程度だった。
 医者も警察も、誰もが運が良かったと言う…。


 違う。


 彼が、そう仕向けたのだ。
 妙な確信とやけに冷めた心を抱え、誰もが生きながらこの世を見てはいなかった。
 傷の浅かった者から一人二人と退院していき、太一の次に外側にいたヤマトを最後に、全員が退院する頃になると、既に季節が変わってしまっていた。

 彼がいないのに時間は進む。
 彼がいないのに季節が変わる。

 やり場の無い憤りが、次第に心を蝕んでいく。
 皆このままではいけないことを知りながら、それでも、誰も前に進み出そうとはしなかった…。
 彼等は導となって導いてくれた人を失い、どちらが前なのかすらも分からなくなっていた。



「…事故現場に行きませんか?」



 そう言い出したのは光子郎だった。
 気を失っている間に霞のように消えてしまった、大切な人。
 それを認めたくなくて、誰もその現場には近づこうともしなかった。
 分かっているのに、もしかしたら、いつかひょっこりと帰って来てくれそうで…。
 全てが嘘だったかのように、笑って…。
 だけど、認めなくてはいけない。
 こんな自分達を、誰よりも彼自身が望んでいないと、分かってしまうから…。

「……行こう」

 静かに皆が頷いた。














 事故から数ヶ月たった今、当時の状況を残しているものは何も無い。
 道路もガードレールも、看板でさえ新しく元通りに直されてしまっている。
 ただ、一つだけ…事故以前には見かけたことの無い、ガードレール脇の、沢山の花束…。

「……毎日、誰かしらがお供えに来る…そうです…」

 その花束を呆然と眺めていた仲間達に、光子郎がぽつりと言った。
 色とりどりの花束…そして、お菓子、ペットボトル、ビニール袋に入れられたサッカー雑誌まである。
 彼が、どれほど沢山の人達に愛されていたか…そして今も愛されているのかが、一目見るだけで痛いほど分かる光景だった。

「………本当…なんだ…な」

 認めたくないのは、誰でも同じ。
 それでも前に進むことを選んだのが、この花束を捧げた者達。
 彼が好きだったから。
 彼が前に進むことを教えてくれたから。
 そんな彼を、ずっと見ていたのだから…。

 登校前、花束を置きそっと手を合わせる少女がいるのだろう。
 下校時、彼のために買ったスポーツドリンクを淋しげに掲げる少年もいるのだろう。

 ぽろり…と涙が頬を伝う。
 知っていた。
 分かっていた。
 だって自分達は、そんな彼と共に、誰よりも彼の近くで、共に歩き続けて来たのだから。

 哀しくて寂しい…。
 彼がいないだけで、心の中にぽっかりと穴が空いている。

 泣くだけ泣いたら前を見よう?
 彼がいないことが、こんなにも哀しくて寂しいのだから。

 彼が側にいない自分を哀れんで泣くのも、今だけならいいだろう。














 帰り道…誰の口にも言葉は無く、本当は一晩中でもあの場所で泣いていたかった。
 あんなにも避けていた場所なのに、今はただ離れがたかった。
 どうしてと繰り返された言葉は、その返事が返ってくることは決して無く、虚しさばかりが降り積もり、一生満たされることが無いことだけが思い知らされる。


 ふと、見上げた空の端に映ったビルの看板。
 先日の台風のせいか、まるで風船のように揺れている。

 止め具が外れているんだ…。

 光子郎はどこか冷静な頭でそんなことを考えていた。

「……光子郎君?」

 歩みを止めた光子郎に、横を歩いていた同じように真っ赤な目をした空が少しだけ行き過ぎてから気づいた。
 光子郎の目線を沿って空が見上げた先で、最後の止め具が音も無くするりと外れるのがはっきりと見えた。

 自分目掛けて落ちてくる看板に、どこか祈りを込めて眼差しで見つめる。
 神でも悪魔でもいい……どうか……




「光子郎くん―――っっ!!」













































 こっちだよ…。















 こっちだよ…おいで…。















 どこかで誰かの声がした。
 それはとても聞き覚えのある声で…とても懐かしい、一番聞きたかった声…。






「太一さん!」






 こっちだよ。






「太一さん!どこですか!?」






 おいで…おいで…こっちだよ…。







 必死に声のした方の気配を探す。
 ここにいるならば、自分を呼んでいるのならば、自分に彼が分からないはずが無いという自信があった。




 こっちだよ…。




 さっきよりも近い場所で声がした。




 …向こうだ!




 何の根拠も無く走り出した。
 ただ会いたかった。
 その声がする方に走れば、彼に会えると信じていた。

 鉛のように重い体を引きずり、無我夢中で走っていると前方に淡い光が見えた。
 その中心にいるのは…。

「…太一さんっ!!」

 会いたかった。
 会いたかった。
 口にするのも憚られるほど会いたかった。
 口にすれば、必死に奮い立たせている自分が、崩れ落ちていくのが分かっていたから…。
 あの日、目の前で消えてしまってから…冷たくなったあなたを目にすることも無く止められてしまった時が…やっと動き出す気がした。

「太一さん!」

 もう一度呼ぶが、なかなか距離が縮まらない。
 そのことに苛立ちながらも、ただ彼に向かって走り続ける。
 先程まで感じていた、気だるさも、重苦しさも、今は嘘のように消えていた。
 春の日差しのように淡い…暖かな光。
 その中で微笑む彼の微笑を目にした時から…。

 あの笑顔が見たかった。
 無くしたと思った…。
 もう二度と見れないと思っていた。

 それが今目の前にある。
 それだけでもう、何もいらないと心から思った。

「……太一さん…」

 後少し…手を伸ばして、駆け寄れば触れられるほど近くに…。
 嘘ですよね…?
 あなたが逝っていまったなんて…。
 ぼくらを置いて、たった一人だけで逝ってしまったなんて…。
 でも…それが本当なら、嘘じゃないなら、ぼくも連れて行って下さい。
 あなたの側にいたいんです。
 あなたの側にいさせて下さい…。

 縋るように見つめれば、哀しげな瞳にぶつかった。

 そんな顔をさせたいんじゃない。
 ぼくはただ…。
 ただ、あなたが…大切なんです。

 その思いが届いたかのように、光の中で太一がふわりと微笑んだ。
 そして、すいっと一点を指し示す。
 見ればその先にも、太一を包む光と同じような光が灯っていた。

「…太一さん…ぼくは…」

 誰もが愛した柔らかい笑顔が自分に向けられていた。
 全てを受け入れ、全てを赦したような、微笑み。
 それを見て、自分の心が浄化されていくかのような、奇妙な、それでいて心地良い感触を覚えた。
 太一に真っ直ぐに向かい、自然と笑みが浮かぶ。

「太一さん、ぼくは…いえ、ぼく達は……」

 何も言わず、ただ光子郎が紡ぎだす言葉を太一は静かに待っていてくれる。

「…誰よりもあなたのことが、大好きです。これまでも…そして、これからも…!」

 その事実がこの胸の中にあることの、何と誇らしいことか。
 あんなに別れが辛く苦しいと感じても、出会わなければ良かったとは、かけらも思えない自分がいる。

 出会えて良かった。
 好きになって良かった。
 あなたに会えて、良かったことばかりです。

 嘘の無い光子郎の表情と言葉に、太一は極上の笑みを浮かべる。
 それは正に、『太陽』のような…。




 行けよ…。




 耳で聞くのとはまた違う声が響く。




 ここを真っ直ぐだぞ。




 行く先を見て、もう一度光子郎に笑いかけた。




 迷わずに行け…オレはいつだって、お前らの側にいるよ…。




 そこで、また違う自分を呼ぶ声がしたのを感じ、急激に意識が遠退いていった。
 その瞬間、太一が笑いながら何かを言っているのを、感じた…。
















































 …呼んでる。













 ぼくを呼んでいる…。











「……ろう、しろう!」





 奇妙な浮遊感と共に意識が覚醒していく。
 どこか冷静な感覚で「目覚めなくては」と思った。

「光子郎!」

 はっきりと自分の名前が聞こえた。
 大丈夫、ぼくはここにいる。
 自分のものでは無いように重たいまぶたを、意志を込めて持ち上げる…。

「光子郎!!」

 もっとはっきりと…それでいて安堵に満ちた声…。
 焦点の合っていなかった瞳がだんだんと画像を結んでいく。
 大切な両親と、愛すべき仲間たちが自分を覗き込んでいた。

「………おと…さん、おかぁ…さん」

 はっきりとは喋れなかったけれど、何とか名前を呼ぶことは出来た。
 その途端、母の目から大粒の涙が零れ落ちて来た。

「……みな、さん…も…」

 視線を移動すると、怒っているような、泣いているような…複雑な顔をした仲間達の姿が見えた。

 ああ…還って来たんだ。

 実感が湧いた途端、胸に熱いものが込み上げて来た。

「…このっ…バカが!」

 心配させやがって…と、ヤマトが涙乍らに光子郎をなじる。
 つられるように、次々と他の仲間達からも温かな言葉が振ってくる。
 本当に心配させていたことが分かって、酷く胸が痛んだ。

 自分は…出来るならばあのまま逝ってしまっても構わないと思っていたのに…。
 己の愚かさを再認識して、そして助けてくれた大好きな笑顔を思い出す。
 いつだって、そして今も、間違った選択をしかける自分達を止めて、やんわりと正しい道へと背中を押してくれるのは彼だった。

 何度助けられたことだろう…。
 彼がいてくれた…そのことだけで、どんなに迷ったとしても、進むべき道は必ず見つけられるだろう。

「…え?何?」

 何か言いたそうな光子郎に空が気づき、手を上げて皆を黙らせた。

「……助けて…もらったんです…」
「……え?」

 ほろり…と目から雫が零れ落ちたが、その顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。

「…体が…重くて…闇の中で、座り込んで…いたら…」

 ほろり、ほろりと、涙は止め処なく流れ落ちていく。
 仲間達は不思議そうに、静かに彼の言葉に耳を傾けてくれる。

「……こっちだよっ…て……教えてくれて……」
「………誰が?」

 目を閉じれば、忘れるはずも無い、彼の微笑が浮かんでくる。

「……太一さんが……こっちだよって……」

 息を呑む声が聞こえた。

「…太一さんが…お前は、皆の所へ……還れって……」

 お前は、還れるんだから…。

「………太一……が…」
「…はい。……いつでも、見てるからって…」

 もう、誰にも言葉は無かった。
 ただ、誰の胸にも言い表せないほどの愛しさが溢れ…切なさに締め付けられていた。

「……太一が……」

 ヒカリが泣き崩れ、ヤマトは額を覆って天を仰ぎ…他の者達も一様にここにただ一人居ない、大切な仲間に想いを馳せた。



 友の無事を喜び、還してくれた友に感謝した。
 聞こえますか?
 見えますか?
 今、そこにいますか?
 ぼく達は、今もあなたと共にいます。
 これからもずっと…果ての無い道を、あなたと共に歩いていきます。













 あなたの遺した、太陽のかけらを胸に抱いて…。













 
おわり

 終わりました…。      
 ごめんなさい、太一さん。
 ごめんなさい、皆さんっ!(泣)