放課後…本来ならもうパソコン教室に行っている時間だというのに、八神ヒカリは一人校庭の端から校舎に向かっていた。 グランドや校舎内の色んな教室では、既に放課のクラブ活動が始まっている気配がしている。 「…もう、皆待ってるのに〜…」 少し憮然と呟きながら、それでも小走りに進むのは心の方が焦っているからだろう。 それが『走る』という行為に変わらないのは、それまでに散々走り回されて体力的に無理だったからにすぎない。 彼女は自分がそうなった経緯の元の顔を思い出し、人知れず顔をしかめた。 本日の日直だった彼女は、担任の言葉通りに今日提出予定だったプリントをクラス分まとめ、放課後になって職員室まで持って行ったのだが…肝心の担任の姿がそこになかった。 帰りの会の時に渡す予定だったのだが、数人のうっかりサン達が再三伝えておいたにも関わらず、各休み時間と昼休みを遊び呆け、放課後まで待つハメになってしまったのだ。 誰とは言わないが。 普段なら担任がいなければ職員室の机の上に置いておくのだが、間が悪いというか運が悪いというか…ヒカリは、今日何となく交わした担任との雑談の中で、そのプリントを先生が今日中にチェックし、明日には再び生徒に配り直す予定であることを教えられていた。 そして、調度プリントを置いておこうとした隣の席の教師が、念のため伝言を頼もうとしたヒカリに、担任が何だかを確認したら直帰するつもりで荷物を持って出て行ってしまったことを知らされたのだ。 そこまで聞いてしまっては、知らなかったことには出来ない。 だが、それを教えてくれた教師は、何を確認するつもりなのかははっきりと聞いておらず、ヒカリは当ても無く目撃者を辿って校内中を探し間回ることになったのだった。 結局は二階の渡り廊下からふと見下ろした、校庭の端にある職員駐車場に向かう担任を偶然見つけ、慌てて追いかけ、何とか捕まえられたのだった。 …が、担任は、プリントの存在を忘れていたらしい。 息を切らせて追いかけてきた生徒の姿に目を丸くし、次いでその手に携えられた物を見て顔色を変えた。 ヒカリと対峙した時には上手にその動揺を抑えていたが、その表情の変化をヒカリは見逃していなかった。 そして、自分を労わってそそくさと車に乗り込む担任を零下30度の微笑で見送り、やっとパソコン教室に向かえているのだった。 機嫌が悪いのも仕方が無いだろう…。 「ヒカリちゃーん!ご苦労様〜♪」 呼ぶ声に顔を上げると、目前に迫った校舎の二階…パソコン教室の窓から、タケルと京、伊織の三人が苦笑を浮かべながら手を振っていた。 「皆、ごめんね。すぐそっち行くから!」 「いーって、ゆっくり歩いておいでよ♪」 「そうですよ。お疲れでしょうし、急ぐことないです」 「やだ、見てたの?」 ヒカリが恥ずかしそうに肩をすくめると、三人は楽しげな笑い声を上げた。 そうして、ヒカリがすぐに行くからと仲間達に合図を送った時、グランドの喧騒が一層高くなった。 「ヒカリちゃんっ!危ないっ!!」 「え?」 遠くから聞こえた見知った声に、一瞬振り返ろうとして、だが本能的に感じた何かが警笛を鳴らす。 思案したのは一瞬にも満たぬ時間…けれど、ひねった体の脇を過ぎた何かが大きな音をたてて校舎の壁にぶち当たった。 それを確認する余裕も無く世界が反転する。 「きゃっ!」 「ヒカリちゃんっ!」 「ヒカリちゃんっ!?」 気がつくと目線の先にタケル達の驚いたような、心配そうな顔が見え、視線を転ずるとサッカーボールが体の横に転がって来るのが見えた。 どうやら、飛んで来たサッカーボールを何とか寸での所でかわすことは出来たけれど、花壇の石段に足を取られてバランスを崩し倒れてしまったらしい。 「ヒカリちゃんっ!大丈夫!?」 「ケガはありませんか!?」 「ちょっと、サッカークラブっ!大輔っ!どこ狙って蹴ってんのよ、馬鹿ぁっ!!」 「オ、オレが蹴ったんじゃねーよっ」 今日はサッカークラブに参加していた大輔がチームメイト達と連れ立って慌てて駆け寄って来る所を、京が上から怒鳴りつけた。 自分の過失では無いものの、少々腰が引け気味にした大輔の抗議は、さっさとヒカリの元に来るために窓を離れてしまった三人の耳には届かない。 そのことに文句も言いたかったが、それよりもまず、大輔は倒れているヒカリを助け起こそうと慌てて駆け寄った。 「ごめんな、ヒカリちゃん…。どっかケガしてない?」 「う…うん。びっくりして転んだだけだと…っ!」 「ヒカリちゃん!?」 服についた土ぼこりを払い、立ち上がろうとしたヒカリが顔を歪めて尻餅をついた。 支えようと伸ばされた幾つもの腕は、結局どれも間に合わずに宙を掴む。 「…〜いった〜…」 「ヒカリちゃんっ。やっぱりケガしてた?どこ痛む?」 「ん…足みたい。転んだ時ひねってたのかなぁ…」 「おい、誰か!保健の先生呼んで来いよ!」 痛みの走った足首をさする。 その程度で痛みが去るわけでは無いが、気づいていない時はそれほどでも無かったのに、気づいた途端、放っておくと波が寄せるように痛みが響き、手の触感で痛みを誤魔化しているといってもいい。 「お前等どうしたんだ?」 どうしようかと心配気に周りを囲んでいた者達が、突然割り込んできたその声にばっと反応して道を開けた。 「……ヒカリ?」 「…お兄ちゃん…」 花道のあちらとこちらで互いを認め、双方驚きに眼を見張る。 「どうしたんだ、ヒカリ?」 申し訳なさそうな後輩達には眼もくれず、太一は真っ直ぐに妹の元に駆け寄った。 太一にしてみれば、本来ならグランドで走り回っているはずの後輩達が、何故か校舎の前で一塊になっているのを不思議に思って声をかけたに過ぎず、まさかその中心に妹がいる等と思ってもみなかったことだろう。 「太一先輩、あの…」 「よぉ、大輔。何情けねぇツラしてんだ」 「だって、ヒカリちゃんが…」 「ああ、いい。大体分かった。ヒカリ、捕まれるか?」 「うん」 半分泣きそうな大輔の頭をくしゃりと撫で、太一はひょいっとヒカリを抱き上げた。 ヒカリの傍に転がっているサッカーボール、集まっているサッカー部員、そして何よりこの雰囲気が、そこで何があったのかを明確に物語っている。 「ほら、ヒカリはオレが保健室連れてくから、お前等はクラブ活動に戻れ」 「でもっ」 「いーから。ぞろぞろいても邪魔なだけなんだよ。ほら、散った散った!」 わざと軽い口調で言う太一の言葉に、彼等はしぶしぶながらもグランドに戻って行く。 ここでぼーとしていても何も出来ないことは事実だし、ヒカリも、兄の太一がいるならば安心だろう。 そんな彼等の中、神妙な顔つきで三人の少年が進み出た。 「あの…ボール蹴ったのオレです。…すみませんでした」 「ごめんなさいっ」 三人でプレーしていたのだろう連帯責任で勢い良く頭を下げる三人に面食らうが、次いで二人は目を合わせて苦笑する。 「…橋本〜、犯人はお前か。今度みっちりしごいてやるから覚悟しとけよ?田中と吉武もな?」 「っ、はいっ!」 弾かれたように顔を上げ、嬉しそうに再び頭を下げて走り去る三人を見送り、ヒカリはくすくすと笑って兄の肩に懐いた。 「罰になってないよ、お兄ちゃん♪」 「そか?それより足くじいたのか?」 「うん、たぶん…ズキズキするもん」 「ヒカリちゃ〜ん、大丈夫?」 「………」 「…何スか?」 心配そうにしていた大輔の目が、揃って向けられた八神兄妹の眼にきょとんとする。 「…大輔、まだいたのか?」 「保健室までご一緒します!」 ここで引かない所が、大輔の大輔たる所以だろう…。 「ヒカリちゃ〜んっ…あれ?」 「太一さん!?」 「いらしてたんですか!?太一さん…」 やっと現着した三人が、さっきまではいなかった太一の姿を見つけて驚きの声を上げる。 「おう、お前等も来たのか」 「ええ、僕等上から調度見てて…ヒカリちゃん、やっぱりケガしてたんだ」 「うん。足をちょっとね…でも大丈夫、そんなに酷くないと思うから」 「そう?よかった〜」 本当は痛いだろうに、心配させまいと無理して笑っているだろう妹に、太一はそっと気づかれないように苦笑を漏らす。 「タケル、悪いけど教室戻ってヒカリの荷物持って来てくれ。ヒカリは今日のデジタルワールド行きは中止。京ちゃん達はそのことテイルモンに伝えてくれるか?」 「はい、分かりました」 「任せて下さい」 「大輔、お前はクラブに戻りな。手当て終わったら、オレが連れて帰るからさ」 「…そーっスね。それじゃ、失礼します!ヒカリちゃん、また明日!」 「うん、また明日」 グランドに駆け戻って行く大輔に、ヒカリをお姫様だっこしているため手の塞がっている太一に代わり、ヒカリが代表して手を振った。 グランドから直接行けるように設計してある保健室には、物の一分もかからずに辿りつける。 生憎保健医の姿は見当たらず、だが小学校時代擦り傷・切り傷、あまり大声で言えない理由等で保健室の常連だった太一は、勝手知ったるとさっさと上がりこんで薬棚を物色しだした。 「あったあった。ヒカリ、ケガした方の足出しな」 「うん」 「湿布張ってテーピング巻くからな?患部を固定させて巻くから、最初ちょっと痛いけど我慢しろよ」 「うん、分かった」 サッカー暦の長い太一はこの手の怪我は慣れっこらしく、手早く処置を進めていく。 「…ヒカリ」 「何?」 「…ここには、オレしかいないぞ?」 「………」 目線も合わせないまま、太一は淡々と呟いた。 痛みのせいか、気を張っていたせいか…その言葉にヒカリの肩からすうっと力が抜ける。 もう、我慢しなくてもいい。 「……びっくりしたの」 「ああ」 「すごく、びっくりしたの…」 「そうだな。…もう、大丈夫だからな?」 「うん…」 膝をついて手当てをしていた兄の瞳が優しい色を湛えてヒカリを包む。その首筋に腕を絡め、ヒカリはぎゅっと抱きついた。 怪我はいつも突然で、心の準備なんて出来ているはずもなくて…感情は押さえるつもりは無くても、後からふいにやってくる。 そうして、そのまま心の引き出しの中で凍らされることの多いそれを、彼はいつも自分より先に気づいて開放してくれる。 甘えているな…と思うけれど、こればかりは仕方がない。 ぽんぽん、と宥めるように背中を叩かれ、ヒカリはそっと兄から離れた。 伺うように太一を見ると、彼はいつものように微笑んでいて、そしてどちらからとも無くくすりと笑った。 調度その時、タイミングを計ったかのように到着したタケル達が扉を開けた。 「ヒカリちゃん、怪我の具合どう?」 「うん、お兄ちゃんが手当てしてくれたからもう大丈夫」 「そっか、よかった〜。はい、これ荷物。ランドセルと縦笛だけでよかったよね?」 「うん、ありがとうタケル君。…テイルモン?」 明るい表情のヒカリの様子に、三人は揃って胸を撫で下ろしたが、ヒカリはその後ろに隠れるようにしているテイルモンの尻尾を見つけて首を傾げた。 隠れきれていない大きな耳と長い尻尾が揺れ、京の後ろからそっとパートナーの様子を覗き見る。 「…怪我、本当に大丈夫なの?」 「うん。もう全然痛くないよ」 「こら。ちょーしのんなよ、ヒカリ。テーピングで固定してあるだけなんだから、帰りはオレに負ぶさって帰るんだぞ?」 「え?そーなの?」 ヒカリは驚いたように兄を見る。 腕くらいは貸してもらうことになるかと思っていたが、歩くことすら禁止されてしまった。 「…すまない、ヒカリ。私が直ぐ傍にいたのに…」 「やだ、テイルモン。そんなこと気にしてたの?突然だったんだもの、誰にもどうしようも出来なかったわ。それに、あそこでテイルモンが飛び出して来たりしたら、もっと騒ぎになってたかもしれないもの」 すまなそうに項垂れるパートナーに、ヒカリはにっこり笑いかけた。 事故とはいえ、元々は自分の不注意でもあるのだ…こんなことで大切なパートナーの心を傷つけたくない。 そんな彼女の思いが届いたのか、テイルモンは顔を上げ、小さく笑って頷いた。 「おっし。じゃあオレ等は先帰るからさ。タケル達もデジタルワールドに行くなら、充分怪我に気をつけて行って来いよ?…悪いな、一緒に行ってやれなくて」 「いえ、また今度一緒に行きましょーね、太一さん♪」 「ああ、また直ぐ来るよ」 「待ってますv」 「ヒカリさん、お大事に」 「うん、皆も気をつけてね」 手を振って出て行く仲間達を見送り、太一はさてと、とヒカリのランドセルを持ち上げた。 「テイルモン、ヒカリの鞄持ってけるか?」 「!ああ、私が持って行く!」 「じゃあ、これ頼むぜ?ほい」 ぱっと顔を明るくしたテイルモンに端に笛を押し込んだランドセルを渡し、太一は何も言わず微笑み、くしゃりとテイルモンの頭を撫でた。 「さ、ヒカリ帰るぞ?こっち乗りな」 「うんv」 背中を向けた太一の背に、ヒカリは嬉そうにつかまった。 「…何だ?やけに機嫌いいな?」 「んーん♪何でもな〜いv」 不思議そうにする太一に、ヒカリは微笑んで首を振り、落ちないようにしっかりと腕を回した。 テイルモンはその横でランドセルを背負い、多分に無理があるものの、普通のネコのふりを決め込んだ。 帰る道すがら、ヒカリは今日のついていなかった一連の事件について太一に報告する。 太一は忍び笑いをもらしながら、それでも妹の話に相槌を打って応える。 テイルモンはそんな二人の様子を、ただ嬉しそうに眺めていた。 そんなテイルモンの瞳に、ヒカリはふと、兄と同じように優しい…緑色の瞳を思い出した。 本当なら、今頃彼に会っていたかもしれない。 自分が怪我をしていなければ…。 「…お兄ちゃん」 「ん〜?」 直ぐ傍で向けられた瞳に、その先の言葉を言うのを止めた。 『もしも』を言っても仕方が無い。 それにきっと彼は、過ぎてしまった『もしも』に心を残してなどいない。 きっともう、次に会える時のことの方を楽しみにしているのだろう。 「…あのね、重くない?」 「重くないよ」 何を言うのかと笑った太一に、ヒカリもくすりと微笑む。 「疲れてない?」 「疲れてないよ」 「お兄ちゃん…」 「ん〜?」 太一はもう振り向かない。 前を向いたまま、それでも優しく応えてくれる。 「あのね…ありがと…」 そのまま首筋に顔を埋め、太一もヒカリの顔を見ようとすることも無く…ただ、静かに頷いた。 その時和んだ太一の瞳を見たのは、二人を伺っていたテイルモンただ一人。 そして彼女は、何だかとても、とても幸せな気分だった。 |
おわり |
終わりです、終わり。
ここで終わっちゃえ(笑)
実は『02』の第一話でヒカリが足挫いた時、私が
期待したシチュエーションでした(笑)
あの後普通に歩いてたよ…ねぇ?
ちょっとラヴラヴな八神兄弟が書いてみたかった
んです(笑)