その日、泉光子郎は緊張した面持ちで校門をくぐった。
何度も来たことはあるけれど、『生徒』として訪れるのは初めての、校舎…。
六年間慣れ親しんだ学校とは、ほんの十日程前に別離を済ませ、今日から三年間、ここが彼の『居場所』になる。
桜が舞い上がる。
自分と同じように真新しい制服を、どこかまだ、ぎこちなく着こなした生徒達がその桜吹雪を追って顔を上げる。
「…すごい」
光子郎は我知らず呟きながら、胸が高鳴っていくのを止められなかった。
確かに綺麗な情景だ…だが、彼の心の高揚はそんなものから導かれたのでは無い。
彼はこの日をずっと待っていたののだ。
それこそ一年も前…彼の一番大切な人が、彼が残る校舎を後にして去ってしまったあの日から…。
彼は自分達よりも早く登校したはずだから、きっとこの光景も見ているはずだ。
自分と同じものを…。
「光子郎―――っ!」
名前を呼ばれた。
声の主を追って頭をめぐらす。
間違えるはずの無い、あの人の…声。
見慣れた…そして見飽きることの無い彼の笑顔を見つけ、満開の桜よりも艶やかに、そして嬉しそうに微笑んだ。
チャイムが午前中の授業の終わりを告げ、教師が扉を閉めると、級友たちは思い思いに席を立ち昼食の準備に取り掛かる。
光子郎も例に漏れず、教科書を片付けると、その手で母の手作り愛情弁当を取り出した。
「泉!一緒に食おーぜ!」
「ええ…」
何人かのクラスメイトが光子郎の側へと集まって来た時、教室の扉がガラリと開いた。
クラス中の視線が集中する中、向けられた本人はそれを気にする様子も無く探し人を見つけると、太陽の微笑を咲かせた。
「光子郎!ちょっといいか?」
「太一さん!はい、何ですか?」
「実はさ…」
光子郎が席を立ち、足早に太一の元へと向かう。
その様子を、まるで時が止まったかのように、クラスメイト達は一言も喋らずじっと見守る。
パソコンに向かっている時以外は人並みに人目を気にする光子郎は…少し居心地が悪い。
「分かりました。すぐ行きます」
「頼む。あ、時間掛かるだろうから、弁当持って来いよ」
「はい」
簡単に打ち合わせを済ませ、光子郎は自分の席の周りで呆然と立ちすくんでいた級友達に声をかけた。
「すみません、こういうことなんで…」
「あ、ああ!いや、うん。大丈夫。行って来いよ!」
「ありがとうございます。それじゃぁ」
「悪いな?光子郎少し借りる」
彼等の元を離れようとした時、入り口から太一が済まなそうに片手を上げた。
光子郎達の会話を聞いて、大体の状況が分かったのだろう。
「いえ!全然気にしないで下さい!」
「サンキュ。じゃ、光子郎、行くぞ」
「はい」
颯爽と去って行く二人の姿が扉の向こうに消えた時、教室内はやっと時間が動き出した。
「八神先輩だよっ八神先輩!びっくりした〜!」
「何?泉、八神先輩と親しいの!?」
「お前知らねーの!?入学式ん時、すっげー騒ぎだったじゃんか!!」
「いいな〜泉君〜…八神先輩と仲良くて〜」
溜め息ともどよめきともつかない空気が教室内を満たし、羨望の眼差しが既に閉じられてしまった扉に注がれる。
パンを買うために教室を離れていた数名は、その異様な雰囲気に思わず後退ってしまったという…。
春から初夏へと移りかけている陽気は爽やかで、向かった先は光子郎の予想通り屋上だった。
「あ、太一!光子郎君!こっち、こっち!」
「空!待たせたな」
先に来て場所取りをしていたらしい空が、太一達を見つけて大きく手を振る。
屋上には、他にも何人かのグループが集っていてとても賑やかだった…そして、時折注がれる視線達。
「あれ?ヤマトは?」
「バンドの子達に捕まっちゃって…先にミーティングだけ済ませて来るって」
「何だ、相変わらず忙しいな〜」
和やかに笑いながら、屋上の片隅でそれぞれ座り込む…といっても、空が来るのが早かったのか、涼しい風がそよぐ特等席だ。
「本日の風向きは南西。ここなら内緒話しても、皆には聞こえないわよ♪」
「流石、空♪」
空は少し得意気に笑って、ちらりと周りに視線を投げた。
何人かこっそりとこちらを注目している者達がいる…どこへ行っても注目を浴びてしまう人だから。
「じゃぁ、先に弁当食ってようぜ。その内ヤマトも来るだろう」
「そうですね。所で空さん…太一さんにざっと聞きましたが…」
「そーなの、昨日ピヨモンが…」
今年度と共に開始された、新たなるデジタルワールドの戦い。
1999年の選ばれし子供達の年長組は、進化する力を封じられてしまいはしたが、今まで培って来た経験と知識を以って新しい選ばれし子供達のサポートをしている。
そして、そのパートナーデジモン達は、彼等の戦いを有利に導くために、望んで危険な土地へと赴き情報収集をしていたが…それが見つかり、あるいはその土地のデジモン達を守るために、圧倒的に劣る戦力で自らを囮にして窮地に落とされることも少なくなかった。
そしてこの前日、傷ついたピヨモンから空へとSOSが届いたのだ。
「も〜大変!日が暮れるまでトランプやらされたのよ〜っ!」
「…それは妙な…いえ、大変な戦いだったんですね…」
横を見ると、太一が肩を震わせて笑いを絶えている。
それを見ると、何だか気負っていた自分が馬鹿のようで、肩から力が抜けてしまった。
「太一!笑い事じゃないんだからね!?向こうについた時はピヨモンの行方が分からなかったし、やっと見つけたらボロボロだしで、ホンットに心配したんだから!」
「ああ、悪い。分かってるよ空」
「光子郎君も!フ抜けた顔してるけど、順番から行くと、次はテントモンよ?気をつけてなきゃ!」
「え!?順番って…」
苦笑いを浮かべ、弁当の包みを解こうとしていた光子郎の手が止まる。
「…何です?」
「え?…いやぁ〜、今日はどんなのかなぁ〜とv」
「そうそう、光子郎君のお母さん、すごく凝ってるんだものv楽しみだなぁ〜て♪」
期待に満ちた瞳が光子郎の手の平に集まる。
「…ご期待に添えず申し訳無いですが、ごく普通のお弁当ですよ」
「えぇ〜!?あ、ホントだ…でもやっぱ、凝ってんじゃんか」
「ねぇ〜!おば様料理上手ね〜v」
広げられたのは『お弁当の本』に出て来そうな、模範的な物。
光子郎はそれを確認して、ほっと息をついた。
入学して初めの頃は、張り切った母親が毎日、昨晩の内から下拵えをたっぷりした豪華な品揃えだった…前回太一達と昼食を共にした時にはそぼろで可愛らしい絵まで入っており、彼等は感動していたが、光子郎自身は居たたまれない気分になってしまった。
だが、それも彼等の前だったからその程度の羞恥心で済んだが…級友達の前で空けていたらと思うと…少し恐ろしい。
以来、これから三年間続くことだし、あまり無理しないよう母に頼み込んで、最近はこの程度に落ち着いている。
「でもこれ皆手作りよね〜v愛を感じるわ〜vうちなんか最近冷凍食品のオンパレードだもの…まぁ、お母さんも忙しいし、仕方ないけどね」
「空ん家は作ってくれるだけマシだって!うちの母さんなんか、朝練ある日は起きれないって作ってくれねーんだぜ?」
そう言って、自分の弁当箱の中の出し巻き卵を口の中に放り込む。
「あれ?太一さん今日も朝練ありましたよね?じゃぁ、それ…」
「おう、オレの手作り♪パンや学食にしてもいいんだけど、金もばかんなんねーし、残りもんでも、自分で作った方が安上がりだからしょうがねーや」
軽く笑う太一に、羨望の眼差しが集う。
「太一はそういうトコすごいわよね〜私だったら、一食抜いちゃうかも…」
「阿呆、中学生男子が、昼飯抜きで一日過ごせるか!背に腹は変えられねーんだよ!」
「それ、デジタルワールドでよく言ってましたよね?デジモン達が美味しそうに食べてる見慣れない食料を始めて口にする時。正にそんな感じですか?」
「あはは。そーだな!おかげで好き嫌い無くなったし、たくましくなったよなぁ、おれ達!」
「そうねぇ〜、サバイバル生活長かったから」
たくましいといえば、空にこんな逸話がある。
女子ならばまず、誰もが悲鳴を上げて逃げ出してしまいそうな黒い悪魔…通称『ゴキブリ』。
以前テニス部女子の部室でそれが出没した時、例に漏れず恐慌状態に陥った女の子達が、男子に助けを求めようと扉を開けた時…調度そこにいた空が、向かって来たゴキブリに対して眉一つ動かさず、持っていた前号の『花と○め』でばしんっと叩き落として絶命させたことがある。
そしてさっさと片付けて、肩寄せあって呆然としていた部員達に不思議そうな目を向けたのだった。
等身大の喋るゴキブリと対峙していたのだ…現実世界の奴など、敵では無いだろう…。
「お〜い、待たせたな」
「ヤマト!遅いわよ!」
やっと現れたヤマトに、揃って目を向ける。
「悪い。今日ここだと思わなくて、中庭の方に行ってた」
「ああ?屋上だって言ってあっただろ?」
「…悪い、聞き逃してたみたいだ…」
「「ばぁ―――か」」
太一と空が見事にハモって馬鹿にした。
対してヤマトは、ダブル攻撃にへこみ気味…落ち込むと際限の無い男なので、二人もそれ以上虐めることは無い。
幾つになっても変わらぬ風景に、光子郎はそっと笑いを噛み殺した。
彼等が集合する場所は、大体三箇所が主立って上げられる。
何故一所に限定されないかというと、一度集まった場所には、翌日人が溢れてしまうというジンクスがあるからだ。
もちろんそれは、彼等目当ての人が集まってしまうからなのだが、人目を忍んだ話をしたい時は、はっきり言って落ち着かない…そんな理由で、ある程度の限定はあるものの、集合場所は日替わりランダムで選択していたのだ。
それでもヤマはって待ち伏せている者には見つかってしまうのだが…。
「…それで、状況はどうなってるって?」
「はい、今話していたのですが…」
それを堺に、全員の顔が引き締まる。
冗談めかして笑っていても、あの世界が生死に繋がる危険な場所だということは誰よりも知っている彼等だから…持てる限りの力で、後輩達を手助けしようと思っている。
そして、彼等が戦うのは世界のためでは無い。
自分達の大切なパートナーや親しくなったデジモン達の住む世界だから、だから護りたいと思い、戦うことを決意したのだ。
いつものように敵のイービルリングを外し、ダークタワーを倒して現実世界に帰って来た時、稀なほど熾烈な戦いをくぐり抜けた小学生達はすっかり疲れきっていた。
そんな彼等に、自分こそ疲れているだろうに平気な振りをして柔らかく労う。
そんな彼の仕草と声に、大輔達は嬉しそうに頷いている。
それを見ながら、光子郎は晴れない心に顔をしかめていた…。
集めたデータを整理するために、太一は皆と別れて光子郎の家へと向かった。
道すがら二人で今日の戦い、以前の戦い、そしてこれからの戦いについて色々なことを話し合う。
会話はもっぱら『リーダー』と『参謀』で、光子郎は少し心が落ち着くのを感じた。
「光子郎」
太一に名を呼ばれて顔を上げると、そこにはさっきまでの『リーダー』では無く、自分を心配する『八神太一』の顔があった。
「何か…落ち込んでないか…?」
どうして、この人はこんなにも聡いのだろう…。
こちらがどんなに自然に振舞っても、上手に隠しても、心が本当に気づいて欲しいと叫んでいることに関しては、必ず気づいて手を伸ばしてくれる。
それが、時に嬉しく…どうしようもなく、悔しい。
「落ち込んでいます…僕は、今日も何も出来なかった…」
「光子郎?」
たくさんのすり傷が残っている太一の頬に、そっと手を這わせる。
予想と情報以上の敵の数と強さに、モニターのこちら側で激しく舌打ちした。
デジタルワールドにいれば気づいたかもしれない伏兵達…硬質のモニター越しでは感じられなかった威圧感。
それでも、それに初めに気づいたのは戦い慣れた太一とタケルとヒカリ…彼等が逸早く行動したからこそ、今日の危機を乗り越えられたと言っていい…だが、彼等が互いに庇いあい、倒れ伏していく様を光子郎はパソコンルームで見ているしか無かった。
彼が、すぐそこで傷ついているのに。
今日ほど『参謀』という自分のポジションを恨んだことは無い。
彼のために、彼の役に立つためにと集めて来た知識の全てが無駄に思えた。
我慢出来ず、デジヴァイスを構えた時…太一がこちらを見た気がした。
あの戦いの中、そんな余裕があるはずが無い。ましてや、彼がモニターに映る場所を知っているはずも無く…だが、彼の瞳が『信じろ』と言っているように思えて、上げた手をそのまま下ろし、強く握り締めていた。
どうして僕も戦わせてくれないんだ!
そう叫んだのは、そんなに昔のことでは無い。
あの戦いの中で、一番悲しかった思い出…あの時の気持ちに同調してしまった。
今では分かる。あの時の彼の思い、考え、そして行動…全てが理に敵っており、理屈で納得する自分が一番理解しやすい方法。
それが、少しも理解なんてしたくなかった。
感情が納得出来なくて、それが赴くままに叫んでいた…あの時にとてもよく似た、想い。
苦しくて、押さえていた気持ちが溢れてしまった。
もう、隠せない。
「太一さん…、僕はあなたが好きなんです」
満開の桜の中、真っ直ぐに自分に駆けて来て、抱きつき様に「おめでとう」と言ってくれたあなた。
周囲の視線を少しも気にすること無く、「待ってたぜ」と言って笑ったあなた。
感情表現の得意で無い自分が、どんなに嬉しかったか、あなたは気づいてくれているのだろうか…。
「世界で一番、大切なんです」
真っ直ぐに太一に向かって顔を上げる。
深くは無いけれど、無数の傷が痛々しい。
今、夕日で逆光になっているのが嬉しい…彼にははっきり見えないだろうが、きっと自分は泣きそうなほど情けない顔をしているのだから。
「……知ってる」
自分の頬に添えられている手を握り、太一がぽつりと呟いた。
「…お前が、オレのこと好きなんて…ずっと前から、知ってる」
ふわりと優しい温もりに包まれて、光子郎は大きく目を見開いた。
抱きついた肩が、僅かに震えているのが分かる。
耳元で小さく囁かれ、その意味に胸が熱くなる。
「…あなたが好きです」
「…うん」
抱きしめながら涙が零れる。
嬉しい時にも涙は出る…三年前に、あなたが教えてくれたことの一つ。
「太一さん、もっと僕を頼って下さい」
「…頼りにしてるぜ?」
体を離し、夕日のせいだけじゃなく赤く染まった顔を両手で包み込む。
「なら、僕にあなたの全部を下さい」
「光子郎?」
「あなたは自分で自分を虐めすぎです…だから、あなたを僕にくれれば、あなたは絶対無理をしない」
思い出すのは、いつも皆の前で体を張って傷つく姿。
「直ぐにとは言いません。僕にそれだけの力があるかと言われれば、答えは『否』ですから」
「…謙虚だな」
「僕はあなたと違って自分を知っているんです。…だから」
ふいっと太一から視線を反らし、長く伸びる影を見る。
太一もそれを追って顔を動かした。
「僕がもっと大きくなったら…」
影は、立ち位置の関係で現実にはありえない、光子郎が太一の背を抜いた形になっている。
現実は、まだ見上げねばならない身長差。抱きつかれれば自分の方が小さく、腕の中に収まってしまうほど。
それでも、いつか来るかもしれない未来が、この影を通して反映される。
「あなたの背を抜く頃には、全てを受け入れられる器を持つ男になっていると、約束します」
影からゆっくりと目を離し、驚きに見開いている太一を真剣な眼差しで見つめる。
その表情が、次第にくしゃりと崩れ…泣き笑いのような顔になる。
「…大きくでたな?…言ったことは、守れよ?」
「もちろんです。誰を裏切っても、あなたの信頼だけは裏切りません。…テントモンに誓って」
「テントモン、か」
くすりと太一が笑う。
いるかどうかも分からない神に誓われるより、随分と現実的だ。
自分だって、何か大事なものをかける時は、きっとアグモンを思い出すだろう。
「……分かった。待ってる」
花が開くように微笑んで頷いた。
太一の信頼は絶対だ。
一度信じてしまえば、それが果たされるまで決して疑うことは無い。
太一の微笑みに、光子郎は気が引き締まる思いがした。
本当の戦いはこれからだ。
一つ一つ、確実にこなして行かなければ追い抜く所か、追いつくことすら出来ないだろう。
だから、今は…。
「それじゃぁ、帰りましょうか。家に寄って行ってくれるんでしょう?」
「ああ、手伝うよ」
自然に手をつなぎ、歩き出す。
その温もりを手に入れられたことは、まるで夢を見ているようだった。
出来ることからするしかないから、階段を昇るように成長しよう。
黄昏の見せた、魔法のような現実を迎えるために。
いつか、この手をひいて、歩ける日を手に入れるために…。
おわり
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