都内の割には緑の多いこの大学は、構内の至る所で昼寝をしている学生達の姿がある。
 彼もそんな例に漏れず、初夏の陽射しの下、それなりに大きな樹の根元に寝そべりながら惰眠を貪っていた。

「…太一」

 名前を呼ばれ、ふと意識が覚醒する。
 瞳に映ったのは、大学入学とともに同居を始めた恋人の姿。

「お前、またこんな所で寝やがって…また変な写真を売りさばかれても知らねーぞ」
「悪かったな。誰かさんが昨日あんま寝かせてくれなかったせいで、ねみーんだよ、オレは」

 欠伸をしながらの太一の嫌味に、ヤマトはバツが悪そうにそっぽを向き、ほんの少し頬を赤らめた。
 昨日の行為の何かしらを思い出したのだろうその様子に、やぶへびだったと太一も顔を赤らめて彼の肩を殴りつける。

「所構わずスケベな面曝してんじゃねーよ!恥かしい!」
「太一があんなこと言うからだろう?」
「あ〜もう、うるせえ!講義終わったんなら飯にしようぜ!」

 わたわたと立ち上がった太一を、くすくすと忍び笑いを漏らしながらヤマトは楽しそうに眺めた。
 自分を置いてさっさと学食に行きかねない後姿を追い、ただ見つめるだけだった背中を思い出して懐かし気に双眸を細める。

 学科は違うが同じ大学に通い、同じ家に住み、一日の半分は一緒に過ごしている恋人。
 数年前には考えられなかった、『今』。

 二年前、サッカーの試合中での事故が元で、太一は選手としてサッカーが出来なくなってしまった。

 三年生としてその大会が終われば引退、そしてプロへの道が既に開けていた矢先でのアクシデント。
 怪我が治れば普通に歩けるし生活も出来る。サッカーだってやろうと思えば出来る…ただ、以前のようなプレーが出来ない…ただそれだけのこと。

 そのそれだけのことが、プロ世界への致命的な壁として立ちはだかったのだ。

 太一は荒れて、荒れて荒れて…退院した後も学校にも行かなくなってしまった。
 見舞いに来てくれたたくさんの友人や先生、そしてサッカー協会の誰とも会おうとはしなかった。
 そんな以前とは比べるべくも無い彼の様子に、仲間達は心配しながらもかける声を持たず、見守っているしか出来なかった。

 だがある日、いつものように閉じ篭もった太一の部屋の前でヤマトが語りかけ、太一は変わった。
 いや、やっと自分を取り戻したのだ。

 もう何日も顔を出さない太一を心配して集まった仲間達の中、ヤマトは静かに太一の部屋をノックした。

「……太一?起きてるだろ?オレの声…聞こえてるよな?」

 返事は無い。
 だが、あの聡い太一が、部屋の外に集まっている自分達に気づいていないはずが無いと確信していた。

「…太一。…お前、何をそんなに苦しんでるんだ?」

 部屋の中から彼の息を飲む気配がした。
 大丈夫、ちゃんと声は届いている。

「何が、そんなに悲しいんだ?…お前がちゃんと生きてて、オレ達がここにいて、おじさんもおばさんも、ヒカリちゃんだってお前の側にいる。サッカーだって出来なくなったわけじゃないんだろ?」

 開かれない扉に向かい、ただ静かに語りかける。

「太一言っていたじゃないか。『サッカーは出来ればどこだっていい』って…それなら、プロじゃなくてもいいんじゃないか?オレ達これからだろう?これから、やろうと思えば何だって出来るし、なろうと思えば何にだってなれる。…なあ、太一…お前が無くしたものって、何だ?」

 息をつめ、見守る仲間達の視線を感じながら、ヤマトは淡々と扉の向こうの太一に向かって言葉を紡ぐ。
 扉に押さえつけるように置かれた拳が振るえる。

「…太一は何にも無くしてなんか、いないだろう?」

 ヤマトが言えるのは、そこまでだった。

 本当は、言葉ほど心は冷静じゃ無い。
 もう何日も太一に会っていない。
 顔も見ていない。

 太一に会いたい。
 出て来い。
 出て来い、太一。
 お前の居場所はそこじゃ無い。
 そんな所じゃ無い。
 オレ達のいるここが、こここそが…お前がいるべき場所じゃないのか?

 太一。
 太一。
 太一。

 祈るように、また縋るように皆が見つめる中、扉が静かに開けられた。
 そしてそこに、やつれた太一が俯き、怪我をした片足を庇いながら立っている。

「………太一」

 名前を呼ぶと、太一はゆっくりと顔を上げる。
 その瞳は不安にゆれていても、そこには落ち着いた、彼の意志が宿っているのが分かる。

 扉を開けても、唇をきゅっと引き結んだまま一歩も動けないままでいる太一に、ヤマトは優しく微笑みかけた。

「…太一、お帰り」
「…!」

 ふわりと彼に抱き締められ、太一はその双眸を大きく見開く…そして次第に雫が浮き上がり、そこから大粒の涙が零れ落ちた。

「…良かった、太一。…太一!」

 痛いほどに抱き締められながら、太一は久しぶりの彼の香りに包まれて、おずおずと背中に両手を回す。
 その手がぎゅっと服を掴み、上げていた顔を彼の胸に埋める…そして、ほっとした表情の仲間達の前で、体を震わせて泣いた。
 彼に縋りつき、疲れて眠るまで泣き続けた…。

 そうして、その後すっかり元に戻った太一は高校へ復学し、出席日数が危なかったが、何とか無事に卒業。
 ヤマトと揃って一年の浪人生活の後、リハビリ等にお金がかかったからと言って国立大学に進学…無謀とも言えた本命一本受験に受かってしまう所が、彼のすごい所だと笑ったのは仲間達。

 そうして日々は、信じられないほど穏やかに過ぎていく。

「…で、ヤマト。今日はバイトあんの?」

 学食のカツ丼をぱくつきながら、太一が向かいのヤマトに箸を向けた。
 それを苦笑しながら、ヤマトは本日特安のキツネうどんをずずっとすすった。

「人を箸で射すなって。…今日はいつものバイトは休み。代わりに教授の書庫整理を手伝うことになってる」
「そっか…オレコンビニのバイトが夕方から夜まで入ってるんだ。夕飯一緒に食えないから、テキトーに済ませといてくれるか?」
「………つまんねぇ」

 済まなそうに言った太一の言葉を、ヤマトはムスっとして受けた。
 こんな風にすれ違いがあるから、折角一緒に暮らしているのに一日の半分位しか一緒にいられないのだ。

 不機嫌になってしまったヤマトを何とか宥めようとして太一はとんでもない約束をさせられそうになったが、後一歩という所で気づき、真っ赤になってヤマトの頭を殴りつけていた。

 それも今では、いつでも見れる当たり前の風景。
 そんな所に転がっている小さな幸せ。
 それを気づかせてくれた、大切な恋人。

 バイトを終えた太一がアパートに戻ると、ヤマトはソファにもたれたまま眠ってしまっていた。
 この時期なら風邪をひくことも無いだろうが、掛け布団位はいるだろう。
 太一にヤマトを運べる腕力は無いため、ヤマトが目覚めぬ限り、今夜の寝床はこのままになる。

 とりあえず風呂に入ってからもう一度様子を伺うが、どうも起きる気配は無い。

 教授連の手伝いは、金はいいがこき使われることでも有名だった。
 よほど疲れたらしいヤマトは、二度三度揺すっても微動だにしない。

「…どーすっかな、これ…」

 髪の雫を拭きがてら頭をがしがしと掻くが、この部屋にベットは一つきりで布団も一組…その掛け布団をかけているのだから、彼を移動出来ない以上、自分もここで寝るしか無いのかもしれない。

「…ま、いっか」

 太一はあっさりと結論を出すと、するりとヤマトの横に滑り込んだ。
 寝息を立てる彼の肩にもたれながら、不思議な感覚にくすりと笑った。

 普通なら、喧嘩した時でも無いとここで寝ようとは思わないのに、今は二人揃ってベットを空けてここにいる。
 何となく訪れた気分の変化に、彼が起きている時には言えない、言ったことの無い告白をしてみようと思った。

「…なあ、ヤマト…寝てる?寝てるよな?…あのさ、オレ、すっげープロになりたかったわけじゃ無いけど…だけど、プロ入りが決まった時、お前すごく喜んでくれたじゃん?皆も自分のことみてーに喜んでくれて…オレ、それがすごく嬉しかったんだ」

 カーテンも閉まっていて電気も消えているのに、外から漏れる不夜城の光に、部屋の中がうっすらと浮かび上がっている。
 だから、隣にいるヤマトの寝顔ははっきりと見てとれた。

「…だからがんばろーって思ってたのに…なのにあんなことになっちまって…応援してくれた皆を…お前を裏切っちまった気がしてた。だって、ホントなら避けられたはずなんだ…オレが気さえ抜いてなきゃ…なんで試合中に、あんな気が抜けたプレーしちゃってたんだろう…」

 エースだった自分はマークも多くて、それでも隙をついてボールを持つと一気に混戦になだれ込む。
 あの時は二人のマークがついていた。
 襲って来たのは三人目のスパイク…今でもスローモーションのように焼きついているあの情景…。

「来るって、分かってたのになあ〜…」

 結果避けられず靭帯を損傷…選手生命を断たれることになった。
 そしてプロ契約を取り消され、部を止め、学校からも遠ざかり…仲間達には顔向け出来なかった。
 あんなにも喜んでくれていたのに。

「…だけど、関係無いって言ってくれるんだなあ、皆。サッカー出来なくても、期待に応えられなくっても…例え走れなくても、きっと片脚もげたって…オレはオレだって、側にいてくれるんだよな…」

 今考えると、いい年して子供の様に泣いてしまった自分の姿は恥かしい。
 だけど、あの場にいた誰一人笑ったりしなかった。
 ヤマトは抱き締めてくれていた。

 いままでのどんな時より、皆が近く感じられた。

「…ヤマト、ヤマト?寝てていいから、夢の中でもちゃんと聞けよ?」

 互いの体温が感じられるほど近くに、けれど更に側に行きたくて…。

「…ヤマト。…大好きだから」

 彼の顔を覗き込み、まだ起きないことに苦笑して、太一はそっと口付けた。
 そうして自分も目を閉じる。

 

 

 

 明日はきっと今日の続き。
 明後日は明日の、明々後日は明後日の…そうしてずっと、まだ見ぬ未来へと繋がっていく。

 人生の中に現れる、予想もしないたくさんの岐路。
 小さな岐路、大きな岐路。
 その度に人は迷うだろう…だけど、例え間違えたって側にいてくれる大切な人達は必ずいる。

 それさえ分かっていれば、進む先には、例え一条でも光はある。

 

 そして、どんな道を選んだとしても…きっと君に恋してる。

 



 

おわり


   『据え膳く食わぬは男の恥』…て言葉知ってっか、ヤマト?
   3900HITの蒼矢藍海様のリクエストでした。
   何寝てんだよっ!起きろよヤマトっ!(笑)
   え〜と…大学生活…?どこがって感じですね(汗)
   ま、一応『大学生』ってことで許してやって下さいませ!(爆)
   …しかし、都内の国立って…(苦笑)