爽やかな日曜日。



 八神ヒカリは朝から忙しく家中を駆け回っていた。
 上からはたきをかけて埃を落とし、掃除機で吸い取る…それが自分の部屋だけでなく、家中を制覇しようとしているのだから、小学生の彼女にとっては重労働だろう。

 だがしばらくして、日頃からマメに掃除してあることもあってか、何とか一区切りつけることが出来た。

「…ん〜、よし!こんなもんよね?テイルモン♪」
「…十分なんじゃない?…家の中光ってるわよ?」
「そう?」

 テイルモンににっこりと微笑んだ時、背後でドアの開く音がした。

「…何だぁ〜?こんな朝っぱらから…」

 寝乱れたパジャマ姿の兄が、まだ眠いのだろう瞳を擦りながらそこに立っていた。

「お兄ちゃん!…ごめん、起こしちゃった?」
「あんだけバタバタやってりゃなぁ〜…母さん達は?」
「休日出勤。夜は二人で待ち合わせて外で食べて来るって」
「相変わらずだなぁ〜…」

 言葉尻を奪うように飛び出した欠伸を盛大に披露し、目尻に浮かんだ涙越しに時計を見た。

「…まだ八時半じゃんか…。ヒカリ、誰か来んのか?」
「うん。グループ研究で千里ちゃん達が」
「?…大輔やタケルじゃ無いのか?」
「今回は女の子だけなのv」
「そっか…悪い、今日昼から部活なんだ。オレもうちょっと寝るな?」
「うん、お休みなさい…起こしてごめんね?」

 妹の済まなそう謝罪に、太一は一度柔らかく笑い、手を振って自室に消えて行った。

「…太一、大変そうね」
「うん…昨日も遅くまで練習があったみたいだから…」

 閉じられてしまった扉の中の人を思い、心配そうに眉を寄せる。
 太一は近々試合があるらしく、最近では夜の十時近くまで部活の練習があり、へろへろになって帰って来ることも珍しく無い。

「あ、テイルモン」
「分かってる。人が来たら、太一の邪魔をしないように部屋にお邪魔させてもらうわ」
「ごめんね?」
「気にしないで。ヒカリがじゃんけんで負けるなんて珍しいこと、そうそう無いもの♪」

 どこか悪戯っぽい瞳がヒカリを見上げた。

 今回のグループ研究は割り当てられた時間だけでは足らず、誰かの家に集まって仕上げをしようということになった。
 そして、それをじゃんけんで決めたのだが…無敗を誇るヒカリのストレート負けによる、意外な結果だった。
 ヒカリのじゃんけんの強さを知っているテイルモンにすれば、不自然極まりないことだが、友人達の間では『珍しいこともあるわね』で終わってしまった。
 そうまでしてヒカリが友人を家に呼びたがった訳…テイルモンには何となく分かる。

「テ、テイルモンっ!」
「大丈夫よ。太一はもう寝てるわ」

 慌ててパートナーの口を抑えようと伸ばした手をやんわりと避け、それでも抱き上げられる腕には抵抗せずにくすりと笑った。
 彼女の長い耳は、扉の奥の太一の寝息が聞き取れるらしい。
 それに少しほっとしたように肩の力を抜き、もう一度太一の部屋の扉に視線を向ける。

 自分に出来る、最大限のことをする人だから…あまり無理をしないといいのだけど…。

 不安に揺れるヒカリを現実に戻したのは、テイルモンの呆れた声だった。

「…ヒカリ。もう四十五分よ?そろそろ誰か来るんじゃない?」
「え!?やだ!まだ部屋のセッティングが〜っ!」

 テイルモンをソファに降ろすと、ヒカリは慌てて自分の部屋に戻って行った。












 何となく聞こえた話声は耳障りなほどでは無かったが、太一は夢の中からゆっくりと覚醒した。
 まず目に入ったのは枕。どうやら抱きかかえて眠っていたらしい。

「ん〜…今何時だぁ〜?」
「十時半よ。あれから二時間たってるわ」
「!?…テイルモン!?」

 返事が返って来るとは思っていなかったので、一気に眠気が吹っ飛んだ。

「おはよう、太一」
「あ、ああ…はよ。…そっか、ヒカリんトコ友達が来てるんだっけ…」
「そう、ちょっと間借りしてるわ。邪魔だった?」
「まさか。そこまで気配消さなくてもいい位だ。声かけられて驚いたぜ」

 軽く笑って起き上がる。
 背伸びして体を解している太一を見ながら、テイルモンはうっすらと微笑を浮かべる。

 彼女自身気配は隠してしまう方だが、太一の前でそうしていたことは、実はあまり無い。
 雑多な気配に聡い彼がテイルモンの気配が気にならなかったというのは、彼自身がテイルモンに心を許しているから警戒する必要が無いということなのだ。
 そんな深い信頼が、こんな所からも感じられて嬉しくなる。

「…昼まではまだちょっと時間あるか…テイルモン腹減ってるか?」
「いや…まだそんなには…」
「ヒカリの友達何人だって?」
「ヒカリを入れて、五人ね」
「そっか…」

 腰と顎、それぞれに手をやり考え込んだ太一だが、彼が思案する時間は大してかからない。
 今回も例に漏れず、早々と決断したようだ。

「オレちょっと出かけてくるわ。誰か来たら留守番頼むな」
「…開けなければいいのね?」
「そーいうこと♪」

 顔を洗い、髪を梳かし、着替えを済まして部屋を出ようとして、太一はもう一度テイルモンを振り返った。

「……面白いか?…そのマンガ」
「面白い!これの続きは無いのか?」
「…来月まで待ちな。じゃ、行って来る」

 太一を見送ると、テイルモンは手に持ったマンガの残りページ数を見て溜め息をついた。

「……来月か…」

 すっかり現実世界に溶け込んだデジモンが、そこにいた。













 部屋の扉をノックされ、話に夢中になっていた少女達は一斉にぴたりと黙って顔を上げた。

「ヒカリ、ちょっといいか?」
「お兄ちゃん?」

 ドアの向こうから聞こえた声に、部屋の中の空気が一瞬ピンク色に染まった。
 ヒカリがドアを開けると、太一が中にいた少女達に顔を見せた。

「いらっしゃい」
「八神先輩!お邪魔しています!」

 にっこり笑った太一に、少女達は頬を染めて礼儀正しく頭を下げた。

「お兄ちゃん、もう起きたの?」
「おいおい、もう十二時過ぎてるぞ?流石に起きてるって。それより、お前等もそろそろ休憩したらどうだ?」
「え?やだ、ホント!気づかなかった…皆お腹空いてるよね」

 ヒカリが振り返ると、同じように気づいていなかっただろう少女達が顔を見合わせ、続いて自分のお腹に目をやる。
 気づいていなければそれで構わないが、一旦気づくと集中していた分だけ、空腹になる。

「昼飯あるから取りに来な。皆も手洗っておいで」
「あ、はい!」

 ささっと立ち上がり指示に従うが、どこか夢心地にふわふわしている感じがする。
 一番初めに手を洗い終えた少女が、ヒカリの部屋にお盆を運んでいる二人の姿を見て慌てた。

「あ、すみません!手伝います!」
「そうか?じゃあ、そこのペットボトルとコップ分担して頼むな?」
「はいっ!」

 元気よく返事した友人に、ヒカリはちょっとだけ小さく笑う。そして、前を歩く兄の背中を見て、心は温かいものでいっぱいだった。

 全員がヒカリの部屋に戻ると、テーブルの上は綺麗に料理が並べられていた。

「……………」

「時間無かったから、から揚げは冷凍食品だ。こっちのハムとチーズのサラダ巻きはドレッシング入ってるから服に零さないよう気をつけろよ?サンドイッチは向こうから薄焼き卵・ゆで卵・サーモン・焼肉、で、こっちの方がジャムとマーガリンだけのになってる。卵ダメな子いたか?」
「あ、いえ、大丈夫です…ね?」
「う、うん」
「そっか?いたらマズイと思ってジャムの作ったんだけど……多いな」

 テーブルの上に乗った量は、小学五年生の少女五人で食べる量では…無い。

「ま、無理せず食べれるだけでいいから。余ったら残しときな。ヒカリ、ラップかけて置いといてくれ」
「うん、分かった」
「じゃーな」
「あの、ありがとうございました!」

 さっさと出て行こうとした太一に、一人が慌てて声をかける。
 他の者もそれに習って頭を下げた。

「味は保証しないけどな♪」

 それに茶目っ気たっぷりのウィンクを残して太一は出て行った。

「……ヒカリちゃん」
「ん?何?食べないの?」

 人数分のジュースを注ぎ分けながら、呆然としているような友人達に目を向けた。

「…これ、八神先輩が作ってくれたのよね?」
「うんvお兄ちゃんの手作りv」

 にっこり笑ったヒカリを見て、次いで揃って溜め息を零す。

「いいなぁ〜っっ!」
「八神先輩、かっこよくて、優しくて、サッカー上手で、その上お料理まで出来るのぉ〜??」
「もう、反則よそんなの〜っ!」
「八神先輩に比べたら、うちのお兄ちゃんなんてトドよトドっっ!!」

 太一の前では人が変わったように大人しくしていた面々が、ころっと姦しくなる様は、それなりに面白い。
 口々に兄を褒める言葉に、ヒカリは嬉しそうに微笑んだ。

「それじゃ、食べよっか?」
「いただきま〜すっvv」

 合掌の後、それぞれの手と口が元気に動き出す。
 話題はもっぱらグループ研究から太一のことに移っていた…お台場小学校を卒業して二年も経つのに、この知名度の高さと伝説の多さは驚嘆に値する。
 そんな彼女等に、ヒカリは妹の特権である取って置きのネタを披露してあげるのだった。

 壁の向こうから響いてくる笑い声に、太一はテイルモンとミーコと一緒に同じメニューを頬張りながら小さく笑った。

「やっぱ、女の子は集まると賑やかだよなぁ〜」
「太一がいる時は大人しかったみたいだけどね」
「まあ、兄貴がいきなり現れりゃ、大人しくもなるわな」

 そう言って笑う太一に、こちらでの人物相関が把握出来かけているテイルモンは、気づかれないようにこっそりと笑う。
 自覚が無さそうに見えて、たまにそれを利用してるんじゃ無いだろうかと思える行動を取る時があるのが、また面白い。
 何よりも大切なのは、ヒカリ。
 だが、それとは別にこの兄妹と共にいられるのが、テイルモンはとても好きだった。

「美味いか?テイルモン」
「ええ。これが一番好き」
「……それか」
「何?」
「いや…サーモンだな…と」

 不思議そうなテイルモンに、太一はそっと緩んでしまう口元を隠した。
 その横では、余りもののサーモンを美味しそうに食べているミーコがいた。









 部屋の外をパタパタと走る音に、ヒカリは顔を上げた。
 そろそろかな…と思った時、扉の向こうから声がかけられた。

「ヒカリ〜、オレ部活に行ってくるからな〜?」
「は〜い!あ、お兄ちゃん!」

 返事をしながら立ち上がり、兄がいるだろう玄関へと向かう。
 残された少女達は、開け放たれたドアの向こうから聞こえる会話に、その気は無くとも耳を欹ててしまう…。

「お兄ちゃん、今日も遅くなるの?」
「いや、今日は開始が早いからな。日暮れ前には終わるよ。紅白戦をやるらしいし」
「試合するの?何時位から?」
「四時…位から始めるとか言ってたかな?」
「中学校のグランドで?」
「いや、今日は貸しグランドの方。だからあんまり遅くまでいられないんだ」
「そうなんだ…じゃあ、お夕飯一緒に食べれる?」
「ああ、父さん達遅くなるって言ってたよな。オッケ♪終わったら即効帰って来るよ」
「本当?じゃあ、夜は私が作るね!お昼のお礼に頑張る!」
「はは。期待してるよ。じゃ、行って来る」
「うん、行ってらっしゃ〜い!」

 和やかな兄妹の会話の後、一拍置いて扉の閉まる音がした。
 その後直ぐにヒカリが部屋に帰って来なかったのは、兄が消えたドアをしばらく見つめていたからだろうか…。

「ごめんね〜席外しちゃって」
「ううん、平気。そんなに進んでないから」

 それは、二人の会話を聞いていたから…。

「でも大分進んだよね〜♪」
「うん、今日中には終わるよねv」
「そうだね……」
「………」

 不意に少女達を沈黙が包む。

「…ねぇ、何時位に終わるかな…?」
「…三時か四時位には…終わるんじゃないかな…?」
「………」

 再び訪れた沈黙。
 それを、にっこり笑って破ったのは、八神ヒカリその人だった。

「お兄ちゃんの紅白戦見に行きたい人、この指止〜まれ♪」
「!!」

 ヒカリが指を高々と掲げ終えたその時には、既に四つの手がしっかりと掴んでいた。
 条件反射のように動いてしまった自分達の行動に、流石に恥かしいのか、ほんのり頬が染まっている。
 中にはテーブルの上に乗り上げてしまっている少女もいた。

「もうv皆自分に素直なんだからv」
「ヒカリちゃんこそ、のせるの上手いんだからv…ところで」
「なぁに?」

 にっこり笑った少女達が、今度は両手でがしっとヒカリの手を握り締めた。

「この残ったサンドイッチ…持って帰ってもいい!?」
「え?」
「私もお願いしたかったの!」
「八神先輩の作ってくれたものを残してなんて、帰れないっっ!!」
「え??」
「お願いっっ!!」

「…わ、分かった…ラップに包めばいい?」

 勢いに押されるように頷くと、彼女等は大きく頷き、嬉しそうに破顔した。
 そして、意地でもこの作業を三時までに終えることを堅く誓ったという…。












 翌日、教室はちょっとした騒ぎになっていた。

「ヒカリちゃんっ!昨日太一先輩の紅白戦見に行ったって本当!?」
「あら、大輔君。どうして知ってるの?」
「うわぁ〜っホントなんだぁ〜っっ!!」

 頭を抱えて天を振り仰ぐ、何時に無くオーバーアクションの大輔に、ヒカリは可愛らしく小首を掲げる。

「おはよう、ヒカリちゃん」
「おはよう、タケル君。…大輔君どうしたの?」

 苦笑したタケルが、教室の中心で少し興奮気味に話している少女を指差した。

「あ、ヒカリちゃんおはよう!!昨日は楽しかったわね♪」
「お、おはよう…どうしたの?」
「どーしたじゃないわ〜vv」

 …と、留まる所を知らぬようにマシンガン話法を屈指する。
 彼女にとっては、よほど昨日の出来事が印象深かったようだ…確かに、兄はかっこよかった。

「2ゴールに3アシスト、PKまで決めたって?」
「うん。合計ハットトリックv今度の試合もレギュラー取れるって喜んでたv」
「太一さんはそこまでやんなくてもレギュラー取れるでしょ。問題はどっちかっていうと、背番号なんじゃない?」
「ん〜、お兄ちゃんエースナンバーとかは拘って無いみたいなのよね。つけたい人がつければいい…みたいな」
「太一さんらしいや♪…それはともかく、ヒカリちゃん。試合があるなら僕にも教えて欲しかったな〜」

 その言葉に、自分の世界で打ちひしがれていた大輔が戻って来た。

「そーだよ、ヒカリちゃぁ〜んっ!折角の太一先輩の勇姿を〜っっ!! 」
「あら。だって二人共、昨日は午後からクラブの練習があるって言ってたじゃない?」
「そんなのサボって行ったさっ!太一先輩の応援にっ!」
「…そんなことしたら、公式戦ならまだしも、お兄ちゃんに口利いてもらえなくなるわよ?」
「…………」

 充分に有り得る結果に、大輔とタケルは思わず顔を見合わせる。

「ヒカリちゃん、おはよ〜♪昨日はサイコーの一日だったわね!」
「おはよ〜。本当にねv」

 次々と登校してくる昨日のメンバー達は、揃って晴れやかな笑顔を浮かべている。
 そして、彼女達の話が終わらないのは、聞く者が減らないからだ。
 次はどうしたとか、その後どうなったとか…ボルテージは上がる一方。
 いつの間にか、大輔も輪に加わり聞いた端から悔しがっている。

「それにしても、太一さんのこの人気はすごいよね」
「あ、そっか。タケル君は今年転校して来たんだもんね」
「うん…太一さんやお兄ちゃんと、一緒に学校通ってみたかったな」
「タケル君…」

 陽に透けるとよけい蒼く見える瞳に、ほんの少し寂しさを浮かべたが、直ぐにいつもの茶目っ気のある瞳に戻って笑った。

「でも、その変わり僕は、この学校の皆が知らない太一さんを知ってるから、いいけどね♪」
「…そうね」

 ヒカリも微笑み、ランドセルの中身を机に移そうとして…固まった。

「ヒカリちゃん?」
「やだ、どうしよう。お兄ちゃんのノート持って来ちゃった…」
「え!?」

 ヒカリの手元を覗き込んだタケルは、確かにそこに『八神太一』の文字を認めた。

「…昨日、お兄ちゃんに宿題見てもらってて…その時だわ。一緒に持って来ちゃったんだ…」
「ヒカリちゃん、落ち着いて!とりあえず、D−ターミナルで太一さんに今日そのノートを使うか聞いてみたら?」
「きょ、今日提出って…」
「いや、何時間目かで状況は変わるよ!太一さん今頃探してるかもしれないよ!?」
「そ、そうね。連絡だけでも…もし直ぐにいるようだったら、テイルモンにお願いして中学校に…」

 タケルの言葉に、ヒカリはD−ターミナルを取り出し、素早く打って送信する。
 この時間なら、たぶん朝練も終わっているだろうし、鞄が手元にあればこのメッセージにも直ぐ気がつくはずだ。
 程無くして送られて来た返信に、二人は同時に画面を覗き込んだ。

 『助かった…ヒカリが持ってたのか。それ要るの六時限目なんだ。昼休みに取りに行っていいか?』

 映し出された文字に、二人は顔を見合わせる。

「ヒカリちゃん!返事返事!」
「うんっ!良かった〜、午前中じゃなくて〜…」

 ほっと明るくなった表情で返事を打ち、また直ぐに返事が返って来た。

「何だって?」
「お友達に自転車借りて行くから、正門で待ってろって。私お昼抜けて行って来るね」
「僕も一緒に行っていい?」
「タケル君も?」
「うん、昨日会えなかったしね♪」

 実はちょっと根に持っているかもしれない彼に、ヒカリは笑って了承した。












 昼休み、自分も行くと言って騒いでいた大輔は、生憎の給食当番で教室でお留守番。
 給食からそのまま昼休みに入るが、配膳も終了していないような今の時間では、まだ校庭で遊ぶ生徒の影は無い。
 その横の正門で、ヒカリとタケルは太一のノートを握り締めながら中学からの道に視線を送っていた。

「太一さん…遅いね」
「もう来ても、いい時間よね…」

 この時間に行くと告げられていると、それから少し過ぎただけでも何か遭ったのではないかと不安になる。
 早く姿を見せて欲しい。

「あ、ヒカリちゃんっ!」

 俯いてしまったヒカリを促し、道の向こうを指差す。
 そこに見えたのは…。

「お兄ちゃんっ!」

 大きく手を振ると、片手を上げて答えてくれる。

「ヒカリ!悪かったな、遅くなって」
「ううん!元はお兄ちゃんのノート持って来ちゃった私が悪いんだもん!」
「いいって、んなの気にすんな!」

 しゅん…と落ち込んだ表情を見せる妹の頭を、くしゃりと優しく撫でる。

「タケル、ヒカリについててくれたのか。サンキュな♪」

 同じように撫でられ、少し恥かしくなる。
 本当にただ、会いたかっただけだから。

「じゃ、時間無いからもう戻るな?お前等も早く戻って給食食えよ?」
「うん。お兄ちゃんもこれからお弁当?」
「ああ、ヤマトと空に思いっきり馬鹿にされたぜ!『提出物位、確かめてから家出ろ』ってな!」
「あはは。一人っ子には分かんないって言ってやればいいじゃないですか♪」

 確かに、持ち物が混乱する兄弟がいない者には、未開の境地だろう。
 太一はもう一度勢い良くタケルの頭を帽子越しに掻き混ぜて明るい笑い声を上げた。

「じゃあ、お兄ちゃん。気をつけてね?」
「ああ、じゃあな」

 とペダルに力を入れようとした時、とんでもない大声が彼等を襲った。

「太一先パ――――――――――イっっっっ!!!!」

 それを振り返り、呆然と見上げる。

「だ……大輔…!?」

 窓のはりから身を乗り出して、腕が千切れんばかりに降っている割ぽう着の姿の少年。

「え!?太一先輩!?」
「太一先輩って、あの太一先輩!?」
「八神先輩が来てんのっ!?」
「どこっ!?どこどこどこどこっっ!?」
「あそこっ!八神先輩っっ!!」
「きゃ――っ!八神先輩〜〜〜っっっ!!!」

 あっという間に、窓という窓から鈴なり状態の小学生達…あまつさえ、指差す者や声援を上げる者までいる。

「…………」
「…大輔…学校抜けて小学校来てんの、モロバレじゃねーか……」

 額の怒りマークが怖い…。
 きっと、彼は会えたことが嬉しくて、その行動による結果は深く考えていなかったに違いない…そして、この距離では太一が怒っていることも気づいていまい。

「お、お兄ちゃん。先生が出てくる前に早く行った方が…」
「あ、ああ…そうだな。……大輔に覚えてろって伝えておけ…」
「了解」

 そして、後輩達の熱い声援をバックミュージックに、太一は颯爽と小学校を後にするのだった。

「…人気者も楽じゃ無いね…」
「その中でも、お兄ちゃんは特別よね…きっと」
「そーだね」

 くすりと笑い合う。
 もう姿など見えないだろうに、いまだ教室内に入る様子を見せない子供達。
 彼等の妙なテンションに、先生達は声を枯らして注意していることだろう…それでも止まないこの情熱は、彼自身がこの学校に残していった置き土産。

 校舎に入る前にもう一度だけ振り返り、鈴なりの生徒達を見上げた。
 そのたくさんの人を見つめ、ヒカリはそっと舌を出す。






 これだけたくさんの人の中、彼を『お兄ちゃん』と呼べるのは、ヒカリ一人だけなのだと。





 おわり


 1212HIT浅葱様のリクエストでした。
 太一さんを賛美する言葉なら、どれだけ出しても
 足りない位ですが(笑)…いかがでございましたで
 しょうか???
 いつも男共にモテている太一さんなので、女の子
 に騒がれてみました(笑)
 『かっこいい』…には今一歩でしょうか…うぬぅ…。
 このテーマにはまた再チャレンジしとうございます!