ちり一つ落ちていない美しく広い部屋の中、その部屋の主が絨毯の上でごろりと寝転がっていた。

 眠っているわけでは無い証拠に、先ほどからしきりに右へ左へと落ち着き無く転がっている…はっきり言って、尋常でなく珍しい光景だ。
 彼を知る者がその行動を見たならば、軽く四日位は石化してしまうかもしれない…。
 が、真実彼を知る者ならば…それは、そんなに頻繁でも無いが驚きもしないことだった。

「……翔龍子様…」

 少し呆れ気味な声音を乗せ、彼の忠実なる臣下であり友でもある青年が呟いた。
 その声に、絹糸よりも柔らかな金の髪をしゃらりと揺らし、億劫そうに頭だけで振り返る。

「…またそんな風に転がられて…女官が見たら卒倒するか、下手したら舌噛んで儚くなってしまいますよ?」
「…私は別に、気がどーにかなったわけじゃない…」
「はいはい。私も責めているわけじゃありませんよ。ただ、そろそろお仕度なさいませんと、謁見が次のお仕事にずれ込んでしまわれる可能性が出ますよ?」

 その言葉にむぅ…と顔を顰め、彼は一つ大きな溜め息をついて体を起こした。
 全身が疲れを訴えているが仕方ない…そんな主のために、リラックス出来るお茶を淹れるのも彼の仕事だった。

 いつになく疲れた様子の翔龍子に、聖樹自身も苦笑を浮かべる。
 ここ数日の激務と、本日のこれからの予定を思い浮かべ…無理も無いと気づかれぬよう小さく息を吐く。

 今日の謁見の者達の中に、翔龍子が『嫌いな者』が二名もいるのだ。
 帝として感情論を言うのは好ましいものでは無いかもしれないが、嫌いなものは嫌いなのだ。

 その内の一人は、周りが呆れるほどのおべっか使いで、自分の主張というものを一切持っていない。
 その上で『長いものには巻かれろ』精神なため、言っていることがコロコロ代わる…そんな者から出る言葉は聞くだけ無駄なだけで、そんなことに時間を使わなくてはならないのかと思うと、ただただ気が重い。
 以前それを偶然見かけたワタルに、『Mr.おべっか』の称号を貰ったことは本人だけが知らない、聖龍殿の笑い種だ。

 もう一人は、自分の力量を鑑みず、翔龍子がただ『若い』というだけで小馬鹿にしているふしがある。
 それがまた、表面上は敬う風体を整えながら、表情や仕草から本音が見え隠れする愚かしさ…これが、もっと完璧なまでに本音を隠していたり、反対に態度があからさまであったりしたならばまだ対処も簡単なのだが、本人無自覚の馬鹿なため、周りの方が困るのだ。
 あの中途半端さが我慢なら無い、どつきたくなる…というのは、皇子暦数年の、ネコを完璧に被り上げる友人の弁だが、翔龍子も同じ気持ちだった…。

 これが、地方の貴族や位の低い者ならば臣下達も帝である翔龍子の手を煩わせることもなく、追い出すなり自分達で相手するなりの手段が取れるのだが、運の悪いことにそれが出来ないほどの位を持つ者達だった。
 また、それぞれが界の代表だというのだから救いが無い。

 そんな彼が、『謁見に出たくな〜い…』と部屋の中を転がっていたとしても…一体誰が責められようか…。

「どうぞ。気分がしゃきっとしますよ」
「…ん…」

 まだ何処か虚ろな意識のままお茶を受け取り、コクリと喉に流し込む。
 良い香りに眼を細め、肩からすとんと力が抜けた。
 それを見届け、主のつかの間の休憩の間に衣装支度をしようと立ち上がった聖樹の背中に、幾分しっかりした感じの声がかけられる。

「…聖樹」
「はい。おかわりですか?」
「いや、違う…」
「はい?」

 小首を傾げて言葉を待つ聖樹に、翔龍子は少し考えるようにしてから何処かすっきりした表情で顔を上げた。

「あっちの衣持って来て」
「あちらの…ですか?」
「そう。あっちの」

 きっぱり告げ、またコクリコクリとお茶を飲む主に、聖樹はにっこりと微笑んだ。

「はい。すぐご用意いたします」
「ん。頼むね」

 軽い足取りで去って行く聖樹を見送り、翔龍子は眉間に皺を寄せ、何も言わなくても九割九部は察してくれる友人に、ほんの少しだけ…頬を赤らめた。






 謁見の間へ向かう廊下の途中で、待ち受けていた緞武宝と近衛達にバトンタッチをするように聖樹は立礼して主を見送った。
 侍従長として、彼にはこの後も翔龍子に負けない位の仕事が残っている。

「武宝、あれ等はもう来ているのか?」
「はい。先ほど到着のふれが参りました」
「分かった」

 一寸の隙も無い帝としての顔になった彼に武宝は柔らかい笑みを浮かべるが、ふと…あることに気づいた。

「翔龍子様、お珍しい衣装をお召しでございますな」
「…何のことだ?」

 眉一つ動かさずに返した翔龍子にますます笑みを深くする。
 後を着いて来る近衛の者達には何のことか分からない。
 彼等から見れば、主の衣装はいつもとさして変わらない、上品で質の良い格式通りの物に見える…どういうことかと内心首を傾げるが、主君の会話を勝手に聞くこと自体非礼であると考えている彼等は、その実情はどうであれ、揃って何も聞こえないふりをした。

 そんな風に部下達が礼を必死に守っていることを知ってか知らずか、武宝は翔龍子にのみ聞こえるように声音を押さえて囁いた。

「…その衣、虎王様のでございましょう?」
「っ!?」

 眼を見開いた主ににっこりと微笑む武官頭。

「……何故分かった?」
「分かり申しますとも。某に、分からぬはずがござりませぬ」
「………」

 迷いの欠片も無く、当然のことと笑う緞武宝に、悪戯を見つかった子供のような気分になる。

 昔からそうだった。
 どんなに他の者を騙せても、お互いがそっくりに擬態し互いを演技していたとしても、この男を騙し通せた例が無い。

「…ただしまっておくのも勿体無い気がしただけだ」
「さようでございますか」
「本当にそれだけだぞ?武宝」
「承知致しました」
「別に、一人で行くのが嫌だったからでは無いからな!?」
「おや、そうでござりましたか」

 さも今気づいたかのように驚いたふりをする臣下に、心の中だけで苦虫を噛み潰す。
 楽しそうに笑う彼を横目に見ながら、釈然としないまま負けた気分に浸かってしまった…。

 それも仕方ない…武宝は彼の、いや、彼等の幼い頃からの守役で、教師で、親代わりでもあった。
 年の功だけで無く、どんなに面の皮を厚くしても彼の方が上手なのは、きっとこれからも変わらないだろう…。



 それもこれも皆…『お前が悪い』と、今は何処の空の下にいるかも分からない片割れに向かい、心の中で八つ当たり気味の罵倒を贈った。





 
おわり