春と夏、秋と冬。
 幾度巡ってこようとも、同じ『とき刻』は二度と無い。



 春は満開の桜を愛でて。
 夏は輝ける太陽の下、命の息吹を感じ取り。
 秋は落ち着いた自然の色に安らいで。
 冬は肩寄せ合って温まる。



 ずっとそうしていたかった。
 許される限り、あなたの傍にいたかった。



 でも、それよりも…その先のあなたの未来で共に在りたい。





 この残された命を賭けても…あなたの子どもを遺したい。


















 ヒカリが選んだのは、健康だけが取り得のような、純朴で優しい青年だった。

 ヒカリよりも六つ年上だった彼は、数合わせにと連れて行かれたコンパでヒカリに一目惚れをして、熱烈なアタックと熱意と根性で、半ばヒカリの根負けで始まった付き合いだった。
 当時は、一歩間違えれば立派なストーカーだったとよく笑ったものだ。
 彼の人柄は誠実そのもので、嘘をついても目と態度で分かってしまう…そんな人だった。

 初めてヒカリが彼を家に招き、両親や兄夫婦に紹介した時は大変な騒ぎになった。

 兄べったりの娘はもう嫁には行かないんじゃないかと悟りを開きかけていた両親は、突然のことに真っ白に燃え尽きてしまったのだ。
 息子夫婦と娘とこの家でずっと暮らすのもいいな〜なんて思い始めていた矢先の紹介に、嬉しいんだか哀しいんだか分からない複雑な両親の姿に、長男夫婦と妹は必死に笑いをこらえたものである。

 更に、日本に活動の拠点を移したとはいえ、世界中で知らぬ顔は無いと言われているサッカー界のスーパースターが居間で笑って挨拶をして来たことにパニックになった彼は、本来なら大きな体からは想像も出来ないはずのハムスターのようだったとは、後に太一が語ったことだ。
 太一に近づきたくてヒカリに近づく…そんな構図が珍しくも無かった当時、本当に兄妹である関係を全く知らなかったらしい彼を、家族は好意的に受け止めた。

 激しい恋では無かった。

 傍にいないことが淋しくて苦しいような恋でも、身を引き裂かれるような熱い恋でも無かった。
 静かで穏やかな、若木に鳥が羽を休めてくつろぐような、そんな恋だった。

 それでも、ヒカリは確かに彼が好きだった。
 兄を、兄夫婦を全ての物事の一番に置く自分を、笑って抱きしめて許してくれる、そんな彼が好きだった。

 その彼が亡くなったのは、突然の交通事故だった。

 慎重な彼は今まで小さな接触事故すら起こしたことは無く、その時も、完全な相手の過失だった。
 信号待ちをしていた彼の車に、飲酒運転の暴走車が角を曲がって逆走し、彼の車に突っ込んだのだ。
 即死でもおかしくない状態で…けれども彼は頑張って、頑張って頑張って、駆けつけたヒカリの手を一度だけ握って、息を引き取った。

 ヒカリが身篭っていたことが分かったのは…その後のことだった。

















「…産むわ」

 妊娠していることが分かってから、彼の四十九日が済むまで沈黙を守っていたヒカリの第一声がそれだった。
 あの人が自分に遺してくれたものだから…そう穏やかな瞳で自分のお腹を撫でながら言った妹の体を、太一は力いっぱい抱きしめた。

「私、大丈夫だよ?お兄ちゃん…」
「嘘をつくな。オレには弱音を吐いていい。泣いていいし、怒ったっていい。…兄ちゃんには全部ぶつけていいんだ」
「……っ」

 張り詰めていた糸が切れて、縋りついた手に力が篭もる。

 たったそれだけの兄の言葉で…。
 泣きながら背中から抱きしめてくれる義姉の温もりに…。
 涙が溢れて嗚咽がもれた。
 声にならない悲鳴が上がる。

 好きだったのだ。

 自分は彼が好きだったのだと心が叫ぶ。

 物語のように激情を伴うものでは無かったけれど、とてもとても好きだった。

 変わっていると自覚している自分を、何一つ否定する事無く、まるごと受け入れてくれた彼が好きだった。
 逝ってしまった彼も、自分のことを好いてくれていたとはっきり言える。

 最後に意識の無いまま自分の手を握り締めた、彼の大きな手…あれがもっと生きたいと叫んでいた。
 たくさん血が流れて、弱弱しい心電図の音だけが生きている証のような冷たい手が、縋る様に込められた一瞬の力…それをヒカリは、きっと一生忘れない。

 誠実で正直で、嘘がつけない人だった。
 後悔しないように、その時々を精一杯生きている人だった。

 だからこそ、あれほど真っ直ぐに、あれほどに真剣に自分に向かって来てくれたのだ。

 その姿が眩しくて、この人ならと思ったたった一人の人だった。
 その彼が瀕死の床で『生きたい』と叫んでいた。

 彼には未練があったのだ。

 どうしても『生きたい』と叫ぶ未練が…。
 彼の未練は、自分だったのだ。

 もっとずっと、この先もヒカリと共に生きたいと、あの手が言葉よりも雄弁に告げていた。

 それが分かるから、分かってしまうから…ヒカリは産もうと決意した。
 彼が遺したたった一つの命の欠片を…守り育てていこうと…。

 泣き崩れる妹をしっかりと抱きとめた。

 太一は唇を噛み締めて妹の悲しみを受け止める。
 どうして…と思う心が止められない。

 彼ならば、大切な妹を託してもいい…そう思っていたのに、それなのに…。
 哀しみに押し潰されそうになりながら、ヒカリは密かに決意する。

 彼のために泣くのは、これが最後。

 ふとしたことで彼の声を感じ、笑顔を思い出して、ぬくもりを想って淋しくても。
 もうあなたを想って泣きません。



 私は『母』になるのだから…。



 人は、淋しくなるために誰かと出会うのでは無いはずなのに。
 哀しくなるために恋をするのでは無いはずなのに。
 失うために幸せを求めるのでは無いはずなのに。

 何故、確かにこの手にあったはずの幸福が、こんなにも簡単に指の間をすり抜けて零れ落ちて行くのだろう…。

 どうして、ずっと抱えていくことが出来ないのだろう…。

 生きたかった。

 ずっと一緒に、見たことも無い明日をずっと…。


 それは、途方も無い、生きている人全ての祈り。


























 産まれた子どもは生き写しの様に母親にそっくりで、ヒカリは少しだけ淋しそうだったが、太一は首が据わったばかりの甥っ子をあやしながら朗らかに笑う。

「あいつの執念だな。あいつは何よりヒカリの顔が好きだったから」

 その言葉に妹が、家族が、友人達が笑い合う。

 一目惚れで囚われて。
 忘れられずに攻めの一本。

 付き合いだしてからは、笑っている顔が一番好きだと照れも無く素で言い放ち、呆然と見返すヒカリの姿に、自分の言った言葉を自覚して真っ赤になる…そんなことがよくあった。

 『光太(こうた)』と名づけられた子どもはよく笑い、人見知りもせずに抱き上げてくれる大人皆に懐いてくれた。
 お生憎様…あなたが一番好きだと言ってくれた笑顔は、あなたにそっくり…そう笑い、ヒカリは一粒だけ涙を零した。

 朗らかで、裏が無くて、楽しい時、嬉しい時に素直に笑う、彼の笑顔が好きだったから。

 続いていく命。

 受け継がれる明日、そして想い。
 その先に広がる未来に、あなたの子どもを遺したい。
 子どもを遺して私も逝きたい。…どれだけ勝手と、言われようとも…。

「…太一君」

 揺るがぬ決意を秘めた静かな妻の瞳を、太一は真っ直ぐに見ることが出来なかった。
 話があると言われた時に、予感はあった。
 けれど、予感することと受け入れることは意味が違う。


「……オレを、置いて逝くのか?」


「太一君…」
「ギリギリまで、一緒にいてはくれないのか…?」

 その言葉には、懇願する響きも確認する意味も無く、ただ事実を並べているだけのような平坦さがあった。

「無茶だって…分かってるか?」
「うん…分かってる…」
「医者にも諦めた方がいいって、言われてただろ?」

「うん…でも、不可能じゃないもの」

「……馬鹿だ。お前…」
「うん、ごめんなさい…」

 縋るように伸ばされた腕の距離を自分から縮め、隙間も無いくらいに抱きしめ合う。

「ホントに、馬鹿だ…」
「うん…うん…っ、ごめんな、さ…っ」

 泣きながら強く抱き合って、その温もりを噛みしめる。

 解かっていたことだった。
 いつか別れが来ることは。
 太一に何かが無い限り、彼女が先に逝ってしまうということは。
 けれど、それでも、この胸を締め付ける寂寥感は、覚悟が足りなかったとでも言うのだろうか。

「愛してる……ひま…っ」

 置いて逝くなと叫びたかった。
 そんなものはいらないと、言い放ってしまいたかった。
 けれどもそんな言葉は言えなくて、言うことが出来なくて…口に出たのはありきたりなそんな言葉で。
 悔しくて、悲しくて、苛立たしくて、だけども間違えようの無い本心で…一瞬で燃え上がった様な愛では無く、時が育てた物だから、突き放すことも出来やしない。
 我侭で、自分勝手で、自分だけ先に逝ってしまうような、薄情な君を。

「…わ、私もっ…愛してます…!」

 どこまでも優しくて、強すぎる、全てを許せてしまう哀しいあなたを。




 そうして、泣いて泣いて泣き尽くし、砂時計の残りの砂を…二人で決めた。


























 まず家族に反対され、医者に反対され、それでも変わらぬ決意に周りが折れた。

 ごめんなさいの代わりにありがとうと言い、義妹に泣きながら抱きしめられた。
 専門家に依頼して作成された、徹底的な栄養管理と体調管理の元の、臨機応変の利く綿密な子作り計画。
 初めに説明された時はどんなんだと思ったが、筋道を立てて説明されればされるほどに納得した。
 これが全て人間如きの思い通りにいくようでは、神様はいらないということだ。

 けれど、数ヵ月後…葵の胎内に一つの命が宿った。
 待ち望んだ希望の命…それが分かった時、カウントダウンも始まった。

「光ちゃん、もうすぐお兄ちゃんになるのよ」
「?…おにいちゃん?おにいちゃんてたいちさんだよね?」

 光太は、言葉を覚えたての頃は太一を母の真似をして『おにーちゃ』と呼んでいたが、周りの大人達の大半が『太一さん』と呼ぶためにそれがカッコイイと思ったのか、最近はそれを真似るようになり、この頃やっと『たいちしゃん』が『たいちさん』になった所だった。

 だが、彼の中では変わらず『お兄ちゃん』は太一のことと理解されていたらしい。
 そのことを微笑ましく思いながら、ヒカリは自分の息子を膝の上に抱えて抱きしめた。

「うふふ。そうよ、光ちゃんもお兄ちゃんになるのよ」
「?たいちさんになるの?」

 不思議そうに首を傾げる息子に柔らかく微笑み、真っ直ぐに目を見て諭すように語る。

「そう。強くて優しい、お兄ちゃんみたいなお兄ちゃんに。あのね、お義姉ちゃんに…ひまちゃんに赤ちゃんが出来たの。だから光ちゃん、『太一さん』みたいに赤ちゃんのお兄ちゃんになってあげてくれる?」
「うん!ぼくおにーちゃんになるっ!」

 元気良く答えた息子に笑みを深くし、その頭を優しく撫でる。

「お母さん、赤ちゃんのお世話で忙しくなって、光ちゃんのお相手出来るお時間が少なくなっちゃうかもしれないけど、おじいちゃんやおばあちゃん、お友達と仲良くいい子で遊んでいられる?」
「うん!できるよっ!だってぼくたいちさんだもんっ!」

 その言い方にくすくすと笑みを漏らし、つん、と額を押して訂正する。

「光ちゃん、『お兄ちゃん』よ」
「あっ、そう!『おにーちゃん』!ねぇおかあさん!あかちゃんってちっちゃくてまもってあげなきゃだめなんでしょう?じょーさんがいってた!ぼくしってるよ!あかちゃんぼくがまもってあげるね?だってぼくおにーちゃんなんだもん♪」
「そうね…光ちゃんが守ってくれるならお母さんも安心だわ」

 得意げに宣言したことを母に褒められ、光太は誇らしげに母の胸に擦り寄った。

「たのしみだねぇ、おかあさん!」
「…そうね」

 無邪気に笑う子どもの言葉に、ヒカリは必死に笑顔を作って同意する。

 兄の子どもが産まれるのは嬉しい…本当は従弟だが、息子に実質的には兄弟と言って構わない存在が出来るのも嬉しい…けれど、それが、義姉との別れの時でもあるのだ。

 兄夫婦が二人で決めた、避け様の無い別れ…。

 この子の父親との別れはあまりにも突然過ぎて、まるで嵐のようだった。
 そして落ち着いてからが辛かった。

 お腹にこの子がいてくれて、兄達や仲間達が支えてくれなかったら、耐えられなかったかもしれないほどに…。

 兄達は今、穏やかに日々を過ごしているけれど、きっと辛いに違いない。
 置いて逝かれる方も逝く方も。
 解かっていたのに…解かっていたからこそ、きっと辛い。
 辛いはずなのにあの人達は、笑って時を過ごしている。
 残された時を惜しみながら、一瞬一瞬を記憶に焼き付けるように笑いながら…。

 太一は光太が生まれた年にプロを引退し、乞われて試合の解説やTV出演をしながら、日本各地でサッカーの普及に努めつつ環境問題にも取り組んでいた。

 現在は甥っ子の父親役の傍ら、外交官になるために国家公務員I種試験に向けてのんびり勉強中だ。

 何故のんびりなのかと言うと、光子郎の調べた所によると、外務省に入省すると、最初の一年間は本省の雑巾がけをするという話だが、その後二・三年は在外研修に外国に行かなければならないらしい。その後は何れかの大使館勤務ということになるから、いったい何処に飛ばされるやらで、今日本を離れる気が無い太一には都合が悪かったからだ。

 太一が外交官になるということは、十年以上も前から決めていたことだった。
 そのために、高校卒業後Jリーガーと大学生という多忙な二足の草鞋を履いて、苦労して大卒の肩書きを取ったのだ。
 人事院が同等の資格を認めれば大卒でなくてもいいらしいのだが、その基準は未だによく分からない。

 それはともかく、太一にとっては、試験に受かる受からないや、外交官になれるなれないの問題では無く、約二千二百人中二百人足らずが合格すると言われている難関、約十一倍の競争率の一次試験も知ったことでは無い。

 なると決めている。

 そのために、学生時代、部活やら代表合宿やらで疲れた身体引き吊って、笑顔で参考書片手に迎える丈の指導に耐え抜いたのだ。
 当時を思い出せば、多少遠い目をしつつ感傷的にもなってしまうが、その辺りの感情は同期の者達共通のものだろう。

 後は、その時期だけが問題で、今はその時期では無いだけのこと。
 限られた時間の限られた日々を共に過ごすため、計画の一部を少々先延ばしにすることに何の躊躇がいるだろう…そしてその事を、誰も責める権利も資格も無い。

 今はただ穏やかに…時の流れに身を任せていた。

「…ね〜え、太一君?楽しかったよねぇ、色々と」
「そうだな…楽しかったな」

 大きく膨らんだ腹に手をやり耳を乗せると、確かに息づく鼓動を感じる。

 優しく話しかけ、元気に動く手足の仕草にくすりと笑う。
 頬をくすぐる風が、少しずつ過ごしやすい季節を連れて来た。
 庭の木陰でくつろぎながら、親子三人の団欒を静かに楽しむ。
 お腹の子どもが分かるように、生まれて来ても淋しくないように、暇さえあれば家族皆が葵のお腹に手を当てて話しかけていた。

 光太がそうしている時にぽこんと彼の手に衝撃が当たり、「いまハイタッチしたよ!」と大喜びした。
 赤ん坊の性別が男と分かり、太一はさっそく名前をつけた。
 それを聞いたヒカリが、「『葵太(そうた)』と『光太』だなんて、本当に兄弟みたいね」と、少し涙ぐみながらも嬉しそうに笑った。

 葵は、体調のいい日に、全部で二十回分のバースデーメッセージをビデオレターで作っている。

 成長を見守ることの出来ない息子への、せめてもの贈り物だ。
 その作業をしている時だけは太一は同席せず、不思議がる家族にいずれ葵太と観るからと言って笑った。

 その代わりと言うように、ヒカリ親子や両親が一緒に映ったりカメラ役をしたりしていた。
 一つ一つ丁寧に、自分が傍にいられない年代の歳を手書きで書いていく。

 いずれ来る未来で、父親と共に観てくれることを思い描きながら…。

 夏も終わりを迎えた初秋…この夏を身重の体で越えた葵は、そろそろ体力が限界に近くなっていた。
 月は満ちてはいないが、胎児が2000gを越えたこともあり、帝王切開で取り出すか、陣痛誘発剤で人工的に陣痛を起こして普通分娩させるかした方がいいという提案が医師からされた。
 このまま体力が衰えていくばかりだろう葵では、母体も胎児も危ないというのがその理由だ。

 だが、その決断をする前に葵が産気づいた。

 月足らずの早産、そして初産…葵の体力、何をとっても不安要素でいっぱいだった。
 けれど、自分の力で、全てを捧げてでも産みたいと願った母と、まるでそれが通じたかのように産まれる準備に入った胎児。
 その事実に、心の底で実はずっと揺れていた太一の心も決まる。

 『もしも』の時には母体よりも胎児の命を優先に…という同意書に署名捺印をした。
 それが彼女の意志でもあったから…。

 消毒して分娩室に入り、苦しむ妻の手を握る。

 かつて無い強さで握り返され、今、彼女が、自分達の子どもを、一つの命を、この世に産み出そうとしていることを、骨も軋まんばかりに握られた手の強さに理解した。

 分かっているようで解かっていなかった現実。

 これほどの痛みと苦しみを越えて人が生まれるのだと。
 これほどに想われて人が生まれて来るのだと…やっと理解した。

 泣きそうになって必死に耐える。
 今泣いてもいいのは自分じゃない。

 必死に産みの苦しみに耐えている彼女。
 狭い産道を通る人生最初の試練に挑んでいる息子。

「頑張れ…頑張れ…!」

 繰り返し繰り返し、その言葉を囁き続ける。
 戦っている妻に、産まれて来る我子に…頑張れ、頑張れと…。

 祈りを込めて握り締めていた手に返っていた力がふっと消えた。

 そのことを不審に思うより先に彼を現実に引き戻したのは、産室に響くか細い泣き声…。


「産まれましたよ!男の子です!」


 助産師の一人が、まだ薄皮を被ったような血塗れの赤子を抱き、嬉しそうに笑った。

 それを呆然と見ている内にあっという間に赤子は産湯に入れられ、綺麗になった変わりに全身真っ赤にして葵の胸元に置かれ、パシャリとポラロイド写真を撮られる。

 その時に『お父さんも入って!』と促されるまま身を寄せて一緒に映った…それが、最初で最後の家族写真。

 写真を撮られると直ぐにまた赤子は助産師の元に戻され、体重やら身長を計測されて足の裏にマジックで名前を書かれた。
 そうこうしている内に太一も我に返り、戦いに打ち勝ち母となった妻に向き合う。

 汗で張り付いた髪を優しく梳き、それに遠退きかけていた意識が戻ったのか、太一を見上げてにっこり笑った。
 疲労困憊、精魂尽き果てた…正にそんな感じで、けれどその目は、やり遂げた充足感に満ちている。

「……お疲れ様、だな。ひま、ご苦労さん」

 その言葉に、緩慢な動作でふるふるっと首を振る。その様子に微笑んで返すと後ろから声をかけられた。
 腕におくるみに包んだまだほにゃほにゃの赤ん坊を抱いた助産師だった。
 その赤ん坊の首を支えてそっと手渡され、声を潜めて呟かれる。

「2500に足りませんので保育器に入れた方が良いのですが…もう少し、奥様と…」

 振り返ると葵の処置も済んだらしく、ベットへと移されていた。
 太一は助産師達と医師に頭を下げ、葵の元に行って力の入らない妻の手を支えるように赤子を抱かせる。

「……そうちゃん、葵太?…お母さんだよ…」

 泣きつかれてまどろみの淵にいたらしい赤ん坊は、母親の声に反応したのかうっすらと目を開けるが、その目にはまだ何も映ってはいないだろう。
 それでも母と父の腕の中、泣きもせずにゆるゆると腕を動かしている。

 柔らかく、新しい、確かな命。
 母親と別れた、新たな命。

「……太一君…ヒカリちゃんと、後のこと…」
「ああ、大丈夫だ」

 頷いて開いている手で葵を抱きしめる。

「…お義母さんと、お義父さんに、も…」
「ああ、分かってる」

 それにほっとしたように息を抜き、愛する息子から愛する夫へと視線を移し、本当に嬉しそうな、幸せそうな笑みを浮かべた。


「………太一君、ありがとう……」


 囁くような、小さな声で…。

「…ひまが、オレの奥さんだよ」

 返した言葉はしっかりと彼女の耳に届いたのだろう…目蓋は既に閉じかけていたが、口元が一層嬉しそうに綻んだ。



「………………ひま?」



 それに返事が返ることは無く、太一は息子を抱きしめて、声をあげて泣いた。



























 デジタルワールドとのゲートが開いたのは、その一年後のことだった。

 温暖化現象に警鐘を鳴らした京都議定書に一番のがんだったアメリカが同意してその活動が実を結んだのか、大気中の二酸化炭素濃度も徐々に減り、海面の異常上昇もなんとか収まり、オーストラリア上空のオゾン層に開いた穴も停滞の兆しを見せ、そのおかげか、異常気象も以前ほど頻繁には起きなくなった。

 だから、互いに影響を受け合うあちらと再び繋がるのも、もうそろそろだろうと予想されていた。

 ここまで来るのにも何年もかかった。
 決して平坦な道のりでは無かったし、自分達の『用意』も完全に整ったとは言えない…けれど太一は、もう少し早ければと思わずにはいられなかった。
 まず、デジタルワールドに戻っていたパートナーをもつデジモン達が、『たった一人』の元に帰って来た。

「…太一、お父さん?に、なったの?」

 かつて「中は狭いんだね…」と評した自宅とは比べ物にならない大きさの家にびっくりし、「太一偉くなったんだねぇ〜」と感心したアグモンに「そーでもねぇよ。最近再就職したばっかだし」と悪戯っぽく笑った太一。
 それに不思議そうに首を傾げたが、誤魔化すように中に案内された先で太一の両親に熱烈歓迎を受け、その後に紹介された子どもを見ての第一声がそれだった。

「おうよ。小さい方がオレの息子で、大きい方がヒカリの息子だ」
「それは見れば分かるよぉ、そっくりだし」

 驚愕が過ぎれば嬉しさと好奇心の方が勝ったらしく、先月『初靴』を済ませたばかりの葵太の顔を覗きこむ。

「こんにちは。ボク、アグモン。君の名前は?」

 至近距離でにっこり笑ったオレンジの見たことも無い何かに、葵太の顔が引き攣った。そして…。

「……………っっうぎゃあああああっっ!!!」

 部屋を揺るがしそうな勢いで泣き声を上げる葵太。
 生まれたばかりの頃は未熟児で、二週間ちょっと保育器に入らざるを得なかった赤ん坊が、その場にいた者全員の耳を塞がせるという偉業を成し遂げた…よくぞここまで成長したものである。

「……ダメだよ太一。怖がらせちゃあ」
「…お前の顔が怖いんだよ」
「え゛っボク!?ボクなの!??」

 どこかで交わしたような会話だ。

 それに、その隣でテイルモンと平和的初対面を果たしていた光太が溜まらず吹き出した。
 母に聞いていた通りのコンビだ。
 幼稚園に入ってから何故だか急に落ち着いて、大人びてしまった光太がお腹を抱えて笑う姿に一同が瞠目し、パニックを起こして泣いていた葵太も信頼する『兄』の楽しそうな様子が気になって泣くことを忘れてしまった。

「こーちゃ?」
「あははっ、ごめん。何でもないよ。それよりちゃんとごあいさつしなきゃ!アグモンは怖いことなんてしないよ?ごあいさつできるよね?」
「あいっ!」

 促されて元気良く頷き、さっき泣いたカラスがもう笑った状態でとことことアグモンに近づく。
 光太が『怖くない』と言えば、絶対に怖くなど無いのだ。

「ちゃっ!」
「……………え?」

 今度は、突然全開笑顔で「ちゃっ!」と言われたアグモンは面食らう。
 それをくすくすと笑いつつ、横から光太が通訳した。

「アグモン、今のはね『こんにちは』って言ったんだよ」
「えっ!?そぉなの!??」

 びっくりしてぱかった開けた口の中に、今度は全く物怖じせずに葵太が頭を突っ込んだ。

「アイヂ〜〜っっ!!??」
「わっ!こら!いくら怖くなくても、頭は突っ込むなっ!」

 口を閉じれないまま助けを求めるパートナーに、太一も少し慌てて息子の体を掴んで引っぱった。

「びっ、びっくりしたぁ〜…」

 驚きに目をぱちくりさせるアグモンに、今のが楽しかったのか、周囲の驚きを意にも介さず、葵太は小さな手をぱちぱちと叩いて喜んでいる。

「えーと、お名前聞いてもいい?」
「あい!ちょーちゃよ!」
「ちょーちゃ?可愛い名前だねぇ」

 強制的にほのぼの効果を撒き散らす赤子とデジモンに、太一が引き攣りながら待ったをかける。
他の者達は面白がって口を挟むつもりは無いらしい。

「アグモン。『葵太』だ」
「へ?『そーた』?そうは聞こえなかったよ?」
「一歳児に完全な活舌を求めるな。ちなみに本人は『そーちゃん』と言ったつもりだ」
「…お父さんになったんだねぇ〜太一ぃ…」

 しみじみと言うアグモンに太一が苦笑した。
 その後テイルモンに遊んでもらっている子供達を眺めながら、アグモンは遠慮がちに太一を見上げる。

「…ねぇ、太一ぃ。太一のお嫁さんは?」
「……死んだ。葵太を産んだ時にな」
「…そっかぁ…」

 しゅんとなってしまったアグモンに寄りかかり、お前が沈むなよ、と笑う。

「後で一緒に墓参り行ってくれるか?…ずっとお前に会いたがってたんだ」
「ボクに?」
「ああ」
「そっかあ…じゃあ、ボク達両想いだねぇ」
「え?」
「だって、ボクも太一のお嫁さんに会いたかったもん」

 記憶にある姿と少しも変わらない、小さく笑って見上げてくる瞳に、懐かしさと嬉しさがこみ上げる。


「…あと、その時太一の傍に、いたかったなぁ…」


 寄りかかり合いながら、アグモンの大きな手が成長した太一の背中を、あの頃と変わらない優しさで叩く。
 一緒にいられた時間の方が少なくて、思い通りに行くことの方が少なくて…けれど、この存在にどれだけ救われて来ただろう。

 いてくれて良かったと、改めて心から思った。


「……ありがとう…アグモン」






















 それは葵太が四歳の誕生日を迎えた夜のことだった。

 外交官として、パートナーデジモンと世界中を飛び回っている父親が久しぶりに帰って来てくれて、夜は一緒に寝てくれるという約束だったのに、目が覚めたら父の姿が無い。
 半べそをかいて探している内に、父の書斎から漏れる光に興味を惹かれ、そっと扉を開け、何故か引き寄せられる様にパソコンのモニターを見上げる。


「……たまご…」


 ぽかん…と呟いた葵太の腕の中に、パソコンから流れ出たデータの収縮形態デジタマが収まった。


「………っ、おっ、おとうさん―――――っっ!!!」


「お?おお〜葵太。とうとうデジモンデビューか!やったな〜♪」
「葵ちゃんおめでと〜♪」
「ほへ?」

 パニックして叫んだ息子の言葉に返って来たのは、何とも暢気な父と育ての母の声。
 それに呆然と振り返って、驚愕に口をぱっかりと開けて固まった。

「…………光ちゃん…?」

 父の後ろに、似たような卵を抱えてちょっぴり顔色を悪くしている兄。
 全てを分かっているかのようににこにこと笑っている家族達の楽しげな姿に、何が起こるのかが分かっていたなら、事前に話しておいてほしかった…と思ったのは、子供達の無理な願いでは決して無いだろう…。



















 数日後、帰宅した太一を待っていたように、光太が二階から声を張り上げた。

「太一さん!太一さんお帰りっ!」
「お〜光太、ただいま〜」
「光ちゃんどうしたのぉ〜♪」
「あっ、アグモンもお帰り!二人とも来て!見て!僕のユキミボタモン進化したんだよ!もう幼年第二期だからしゃべれるんだよっ!葵太のボタモンもコロモンになったんだよ!」
「お〜おめでと〜♪早いな、今朝デジタマが孵ったばっかりなのに」
「ホントだね〜」

 嬉しそうな甥っ子の手招きに従って二階に上がる。

 初めこそ呆然としていたが、流石に子供達は馴染むのが早く、自分達にも父母のようにパートナーが出来ると聞いてとても喜び、デジタマが孵る日を片時も離れずに待っていたのだ。
 そして今朝、光太と葵太のデジタマが揃って孵り、産まれたデジモンの姿に笑った。「これはもう運命だねぇ♪」と笑ったのはアグモンだっただろうか。

「葵太ただいま。葵太のボタモンが進化したって?」
「あっ、お父さんお帰りなさいっ!」

 光太に手を引かれて入った子供部屋で、コロモンとじゃれていた葵太が嬉しそうに顔を上げる。
 その姿に顔を綻ばせた太一に、コロモンが懐かしい笑顔を向けて彼を呼んだ。




「太一くーん♪」




「え?」











 
おわり



お疲れ様でした。
これにて『淡雪より儚く 舞い散る桜より美しく』シリーズ完結でございます。
始めは空が主人公でしたが、番外編になった途端ほぼ出番無し(笑)
だって太一さんでしょ、やっぱ(笑)
長いようで短い話でしたが、原作最終話『…そして25年後…』のモノローグの
中にはこのようなエピソードがあったのだと桃生は思っております。ええ、きっと!!!(笑)
どちらかというとBL系の当サイトにて、太一さんに女!しかもオリキャラ!?的展開に
どんな反応が返ってくるかと内心ビクビクしておったのですが…びっくり。
否定的に意見は、実は一つもありませんでした…。
皆様の寛大なお心あってこそ、ここまで出来たのだと思います。
本当にありがとうございました!!

ひまちゃんというキャラは、原作のとんでも展開に悩み、苦しみ、打ちひしがれていた
私の心に舞い降りてくれた天使でした。
話のつじつま合わせに私が作り上げた、というよりは、気づいたらそこに居てくれた…
そんな感じでするりと入ってきてくれました。
だから、とても楽に書けた気がします。
展開に困って筆が止まった記憶があまり無いので…(笑)
いつかまた、この世界の彼等の様子を、こっそり覗けた時にはお知らせ致しますので、
その時はまた、お付き合い頂ければ嬉しいです。