平日の八神家の朝は、遠慮がちな扉の閉まる音から始まる。
…カタン
普通なら気づかないだろうその音に、ヒカリとテイルモンは同時に薄く瞳を開けた。
「…おはよう、テイルモン」
「おはよう、ヒカリ。…太一、今日も行ったみたいね」
「うん。じゃあ、私たちも起きよっか…」
にっこりと微笑み、固まった体を伸びをして解す。
そしてベランダに面する扉を開けて向かいの道路を見る。
覗きこむと、調度彼がエントランスから出て準備体操をしている所だった。
そして、軽い柔軟を終えると颯爽と朝の街に駆け出して行く。
春も夏も秋も冬もずっと続けられる彼の日課。
それを見届け、ヒカリは朝の冷気にぶるりと体を震わせた。
いつも思うことだが、さっさとベランダに出てしまう自分を上着を持って追い駆けてくれるパートナーがいなければ、風邪をひいたのは一度や二度では無いだろう。
「えへへ♪ありがとう、テイルモンv」
「ヒカリ…いい加減にちゃんと自分で着てかないと、太一に怒られることになるわよ?」
「分かってるんだけど…つい、ね」
暗に風邪ひくぞと窘められているのは分かるが、ぺろりと舌を出して甘えてしまう。
彼女がこんな態度を取るのも、この世で兄と、このパートナーにだけのこと。
ヒカリは着替えを済まし、学校へ行く準備を済ますと台所に出て朝食の支度に取り掛かる。
実はこの時間はまだ両親は起きて来ない。
あらかたの支度を済ませると今度は浴室に行き、電源を入れてシャワーをいつでも使える状態にする。
脱衣所にタオルを用意した所で、大体起きてから調度一時間十五分。
ヒカリはパタパタと玄関前に行ってスタンバイ…そこにタイミングよく扉が開く。
「お帰りなさい、お兄ちゃん♪」
「おう、ただいま〜…ふう。今日も早いな、ヒカリ」
「うんvシャワーいつでも使えるよ。早く汗流しちゃって?」
「ああ、サンキュ。毎朝悪いな」
ロードワークを終えたばかりの太一は少々バテ気味だが、何も言わなくても自分に付き合って早起きしてくれている妹を労わることは忘れない。
ヒカリは撫でられる手を嬉しそうに受け、彼の後に続いて奥に向かう。
太一がシャワーを浴びている間に、ヒカリは朝食のセッティングを済ませて待っている。
メニューはご飯にお味噌汁、おかずは卵料理が多かった。
オムレツか目玉焼きか炒り卵、添えるのはベーコンかハムかソーセージ。時にパンになったり納豆を組み合わせたりとバリエーションには事欠かないが、この組み合わせが一番手間がかからず失敗も少ない。
本日はほかほかチーズオムレツにかりかりベーコンのトッピング。先に茹でておいたブロッコリーとプチトマトを添えて彩りもばっちり。
いい匂いが部屋の中に広がる頃、太一はさっぱりした顔つきで出て来る。
「は〜、気持ち良かった♪」
「あ、お兄ちゃん。おはよう♪」
「おはよう、ヒカリ」
八神兄妹の朝は、そんな風に朝の挨拶が他のご家庭とはちょっと違う順番で行われていた。
二人と一匹が楽しく朝食の席を囲んでいる頃になって漸く、八神夫妻が起き出してくる。
「おはよう、母さん、父さん」
「おはよう、お母さん、お父さん」
「おはようございます」
太一・ヒカリ・テイルモンのそれぞれが挨拶をすると、両親の瞳にやっと生気が宿ってくる。
「おはよう〜、いつも早いわね〜三人とも」
「お〜美味そうだな♪ヒカリ、今日は大成功だな」
父親の褒め言葉にヒカリは嬉しそうに微笑んだ。
その間に母はエプロンをつけて自分と夫の分のおかず作りに取り掛かる。
ご飯と味噌汁はヒカリが一緒に作っているので、手間もかからず、彼女にとっては大助かりだ。
料理が出来上がった頃、父が洗面所から出て来て食卓につく。
入れ替わりで母が洗面所に向かい、八神家は洗面所の争奪戦とは無縁に朝を過ごしていた。
朝食の支度をする代わりに片付けの方は全面父が受け持ち、母は調度洗濯の終わった洗濯物を干しに出る。
太一がシャワーを浴びる前に種分けして、全自動のスイッチまで押してあるのだ。
ヒカリは一度部屋に戻って準備した物をもう一度確認してから、片付けを終えてリビングで新聞を読む父の横にテイルモンと一緒に座り、その間に太一も学校に行く支度を整える。
それを終えて部屋から出ると、調度いつもの登校時間。
出社時間の関係で子供達より遅く家を出る両親に見送られ、二人揃って仲良く登校。
小学校と中学校の共通通学道路の別れ道まで来ると、ヒカリはいつもつまらなそうな顔をする…そんな妹をいつものように苦笑を浮かべて宥めてから手を振った。
しばらくすると、いつもの合流地点で空とばったり。
「おはよ、太一」
「おはよう、空。時間ぴったりだよな」
「そっちもね」
別に待ち合わせている訳ではないのに毎朝起こる偶然は、それはもう必然と言うべきかもしれない。
談笑しながら歩く二人の横を、互いの後輩達が挨拶をして駆け抜けて行く。
一年生は始める前に色々と準備しておく役目があるため、先輩より早く登校する義務があるのだ。
「二年になって何が良かったって、雑用しなくてよくなったことだよな〜」
「そーねぇ。だけど太一は、一年の時も何だかんだ言って免除されてたじゃない?」
「へへん♪先輩受けが良かったんでね♪」
「何よ、生意気っ!」
悪戯っぽく笑った太一を空が殴るふりをして、太一がそれを避けるふりをする。
無論二人とも本気では無いためおふざけの域を出ない。
じゃれあっている間にクラブハウスに到着し、「また後で」とそれぞれの部室に向かった。
「おーっす♪」
「オッス、八神!」
「おはよう!」
「オッス、太一」
この時間部室にいるのはほとんどか二年生のため、挨拶も自然と砕けたものになる。
一年生は朝練の準備でおらず、三年生はもう少し後から登校してくる…まるで重役出勤のようだ。
二年生がグランドに顔を出すと、散っていた一年生達が集まって来る。
「おはようございます!八神先輩!」
「おはよー!誰か欠席いるか?」
「浅野と詫間です。詫間は遅刻かもしれませんが、浅野は病欠の知らせが来てます」
「何だ風邪か?お前等も気をつけろよ〜!」
二年代表である太一が確認を取ると、一年代表の者がすぐさま答えた。
朝は点呼を取らず、その後太一が三年のキャプテンに伝えることになっているので、一年代表者も抜かりは無い。
太一の言葉に全員が元気良く返事をし、とりあえず朝の練習が始まる。
一年の指導が一区切りした三十分後、現れた三年生を加えて初めて整列しての朝の挨拶。
運動部に残る、不自然なまでの数々のしきたり…はっきりと区切られた上下関係が存在するにも関わらず、何故か先輩後輩の仲は穏やかだった。
橋渡しする人間の人徳かもしれない。
朝練が終わると各自着替えて教室へ。
向かった場所で、太一は一時間半ほど前に別れたばかりの幼馴染の顔を見つけた。
「…太一、眠そうね」
「おう。今日は一時限目からやべぇかも…」
「せめて三時限目までは頑張んなさいよ!もーすぐテストよ?分かってる?」
「空…ノートヨロシク…」
「…太一、これ使う?」
目の前に出されたのは洗濯バサミ…挟めば痛みに目も覚めることだろう…。
「…三時限目までは頑張るよ…」
「そーしてちょーだい。ちなみに四時限目は体育。種目はサッカーよ」
「…鬼。……いい、オレには光子郎様がついている」
「光子郎大明神様ね…今回はあたしもあやかりそう…」
彼が自分達よりも一学年下だということは、これっぽっちも気にしていない。
そうと分かっていて、毎度懲りずに泣きついてくる先輩を、呆れながらもあらかじめテスト範囲のプリントを用意しておいてくれるのが光子郎の良い所。
ヤマトは甘いと言う時もあるが、結局彼も仲良く机を並べていることが多いこともまた事実。
「…今回は丈も巻き込むかな〜…」
「丈先輩?なんでまた…」
「ん〜…最近会って無いしさ〜」
「…そーね。うん、丈先輩にも会いたいわね」
「だろ?会いたいよな?特にテスト前なんか、無性に丈が恋しいよな?」
「うんうん、他意は無いけど、すっごく丈先輩に会いたいわよね」
自己中心的な話題に花を咲かせていると、呆れた第三者の声が割り込んで来た。
「何言ってるんだ?お前ら?」
「よおヤマト。今度のテスト勉強、お前も一緒にするか?」
「は?まだ一ヶ月あるだろ?こんな頃からお前がそんな話題を出すなんて…熱でもあるのか?」
ヤマトの言い様に、二人は思わず吹き出した。
「まー確かにな〜。だけど、今回のオレは一味違うぜ」
「光子郎に頼らないとでも言うつもりか?」
絶対無理だろうとでも言いたそうなヤマトに空が笑いながら付け足した。
「惜しい、ヤマト!頼らない訳じゃないけど、違う計画が発動中なのよ」
「違う計画?」
「近々丈に、是非ともお会いしたいよなって♪」
「……………」
にやりと笑った二人、ヤマトはふっと口の端を上げて微笑んだ。
「…ああ。是非ともお会いしたいよな!」
「そうか、ヤマトもか!」
がっちりと手を組む三人の姿を、クラスメイト達が興味深そうにちらちらと覗いている。
何をしていても注目を浴びてしまう校内の人気者達は、今ここに『他力本願同盟』を結成したのだった。
昼休み、屋上で光子郎も交えていつものように弁当を広げた。
朝出来上がった計画を光子郎に話すと、流石に呆れたようだったが、三人一度に相手するよりはと丈を巻き込む計画に同意した。
『仕方が無いですね』で全て終わらせてしまう光子郎は、間違い無く怒らせたら怖い部類だろう。
そんな彼と上手く深く付き合っていける所も、彼等の才能の一つかもしれない。
「太一さん、眠そうですね」
「ああ、今日は授業中寝てねーからな…今ここで寝ると風邪ひくかなあ…」
本日は珍しいほどのぽかぽか陽気とはいえ、すでに冬の足音が身近に感じ始めている今日この頃…外で寝るのは、少々無用心なことかもしれないけれど…。
「今日は風もそんなにありませんし、大丈夫じゃないですか?」
「太一まだ朝のロードワーク続けてるのか?」
「おうよ。毎朝十キロ程度、お台場内をふらふらと〜…」
「ジュっ………」
唖然とする仲間達を尻目に、太一はすでにうつらうつらと眠りかけ。
「どーりで全然ライブに顔出してくれないはずだよな〜、おい太一!たまにはオレの美声を聴きに来い!」
「あ〜?なーにほざいてんだ、ヤマト…」
「…太一、頭痛くない?膝枕したげよっか?」
「マジ?サンキュー空〜…」
「はいはい。昼休み終わるまであと二十分よ?たっぷり英気を養ってね!」
空の言葉が終わる前に、太一はさっさと寝息をたてていた。
「…大丈夫か?空…二十分は結構長いぞ?」
「う〜ん、足痺れたらヤマト代わってね」
「そこまで言うなら仕方無い」
「…やめて下さいね、ヤマトさん。起きた時太一さんの心臓が止まっちゃうじゃないですか」
「そーいう時は…」
「ヤマト、その先は言わないでね?」
空がにっこりとヤマトを制し、光子郎はその様子に楽し気な笑い声を上げた。
話の内容までは分からないまでも、その様子を目撃した者達により、また愉快な噂が校内中を駆け巡ることになるが、それはまだ彼等の預かり知らぬ事。
午後の授業を終えた頃には、尾ひれの三つ四つ所か二十位ついていそうな噂は校内中に伝わっており、部活へと向かう太一の背中には好奇心に満ち満ちた視線があらゆる所から投げかけられたが、太一はそれを綺麗さっぱり無視して歩いた。
根も葉もない噂やどうでもいい話のネタにされることは既に珍しくも無く、煙が無い所に…所か、地下マグマグラグラ状態の学校生活を送ってきた太一は、いちいち人の視線を気にしていては身が持たないのだ。
故に、故事に倣いて『人の噂も七十五日』と無視し続けて来たが、次から次へと生み出される壮大な噂話に、他人事のように楽しむこともたまにある。
時には出所の違う三つほどの噂が、いつの間にか一つに合体して一人歩きを始めたこともあるが、その時はあまりに楽しくて、肯定して皆の度肝を抜いたこともあった。
そんな経験から、太一にほど近い交友関係を持つ者は、噂の九十八%がデマだと知っているため、本気にする心配も無く放っておけるというのは、ありがたい話なのかもしれない。
部室の前で、数人の後輩達が頬を紅潮させて太一が来るのを待っていた。
「あ、太一先パ―――イ!」
「おう、どーした?」
「先輩、昼休み屋上で友達数人と乱交パーティー開いてたってホントですか!?」
「あはははは!ホントだったらどーすんだよお前?」
「流石ですっ!オレも仲間に入れて下さ――いっ!」
「残念、レベルが足りません♪」
「そんな〜っっ」
太一が笑いの発作で苦しそうにしていると、今度は先輩が…。
「…八神、金に困って体売ってるってホントか?」
「ぶはっ!またディープな噂が走ってるんスね!?」
「噂なのか!?」
「やだなぁ先輩vオレは高いっスよv」
部室に一人、先輩をフリーズさせて太一はグランドに向かった。
彼にしてみれば、何故信じられるのか皆目見当がつかない噂ばかりが信じこ込まれている。
無責任に楽しんでいても、何故そんなことになったのか、光子郎に頼んで一度校内の意識調査をしてもらいたいと、実は真剣に考えていたりもした。
「…八神。今度はまたすげーことになってるな、お前」
「お前はどんな噂を聞いたんだ?」
「八神を竹之内と石田が取り合って、そこに後輩の何とかって奴が八神は自分の物だから諦めろって高笑いしてたとか…」
「あっはははははははっ!!何だそれ!?すげー楽し〜っ♪他は?」
「…いいよ、もう。お前見てると、いかに噂話が信用出来ないかがよく分かる」
笑い続ける太一の横で、チームメイト達が溜め息を零す。
本人達は知らないだろうが、突拍子も無い噂話が飛び交い、それを皆が信じてしまうのは、少なからぬ彼等の『願望』を入り混じってのことだろう…。
「おい、何してんだよ!さっさと始めよーぜ♪」
何処か力の抜けた面々に、太一が太陽を背負って笑いかけた。
明るくて、行動力があり、何よりも心の綺麗な優しい人。
彼等は眩しそうに瞳を細め、仕方無さそうに太一の元に駆けて行く。
捕まってしまったのは自分達だから、仕方が無い。
太陽に惹かれるのは、生き物の性なのだから…。
「ただいま〜!」
心底疲れて玄関を開けると、奥の方から軽やかな足音が近付いて来た。
「お帰りなさ〜い!」
「あれ?ヒカリとテイルモンだけか?母さん達は?」
「今日も遅くなるって」
「…じゃ、夕飯は…」
ずーんと暗くなる兄に、ヒカリは苦笑を浮かべて一枚の紙を見せた。
『太一とヒカリへ
お母さん達遅くなるから、夕ご飯は適当に済ませてねv
本当に良く出来た子供達でお母さん嬉しいvv
テイルモンちゃん、二人に美味しいもの作ってもらってネv
母より』
「…………………ハートマークが凶悪だな…」
書き置きを読み終わり、太一はむっつりと家に上がった。
どうやら母は、料理の出来る子供達を知っているため、店屋物を取る選択肢すら与えてはくれなかったようだ。
「仕方ねぇ。ヒカリ、さっさと作るか!テイルモン、お前も手伝えよ?」
「「はーい」」
良い子の返事を寄越した二人に笑いかけ、太一は制服の上着を脱いで袖を捲り上げた。
上着を放ったソファの上に赤いランドセルが置いてある。ヒカリもつい先程帰ったばかりだったのだろう。
冷蔵庫を開けて食材を確認し、さっさと出来て量のある炒飯を作ることにした。
踏み台に乗って身を乗り出したテイルモンが野菜を洗い、ヒカリが横でそれを刻む。
太一は中華なべに火をかけ、手の平で温度を確認しながら油を引いた。炒めるのに時間のかかる野菜と肉から順になべに放り込み、菜ばしで掻き混ぜる。
「…ダイナミックね、お兄ちゃん」
「気にすんな。レタスはどーせ形崩れちまうんだ。ちぎって入れても大差ねえ」
「そりゃそーだけどね…」
いつになく手間を惜しんだ『男の料理』をする兄に、ヒカリは目を丸くしてテイルモンと顔を合わせた。
「…お兄ちゃん、今日授業中寝れなかったみたいね」
「ええ。食べたらさっさと寝ちゃいそうね…ヒカリ、私お風呂お湯はって来ようか?」
「あ、お願いテイルモンv」
「任せて」
流し台の上に座っていたテイルモンがぴょんっと飛び降りて浴室へ向かった。
太一は大量の炒飯の入った中華なべを渾身の力を込めて持ち上げて炒めている。
「…お兄ちゃん…」
「…お、重い…作り過ぎたか…!?」
「大丈夫、お兄ちゃん!ヒカリもテイルモンもいっぱい食べるから!」
「おう…そーしてくれ…オレも死ぬ気で食うよ…。アグモンがいりゃ、楽に片付く量なんだけどなあ…。よし、皿!」
「はい!」
ヒカリが三つの大皿を並べ、太一がそこに炒飯を分配していく…こんもりと盛られた三つの山に、流石の二人も声が出ない。
「……………」
「…攻略本が必要だな」
「それよりお兄ちゃん、いっそ本当にアグモン呼ばない?」
「う〜ん、今呼んで大丈夫かなぁ?一応光子郎の方に連絡とってみるか」
「うん!」
太一が光子郎に電話をかけに行っている間に、ヒカリはさっさとお皿をもう一枚取り出して四人分に仕上げる…それでもまだ、多い。
「ヒカリ?太一はどうしたの?」
「テイルモン、…うん、ちょっと作り過ぎちゃってね?アグモン呼べないかな〜って光子郎さんに連絡とってるの」
「ああ…確かに、多いわね。太一もこういう失敗するのね…」
珍しいものでも見るように山盛りの炒飯をマジマジと見つめるテイルモンに、ヒカリはあははと苦笑した。
「ヒカリヒカリ!連絡取れたってさ!うちのパソコンにゲート開けてくれ!」
「ホント!?分かった!」
太一が受話器を握りながら嬉しそうに声を上げ、ヒカリは急いで太一の部屋に行きパソコンを立ち上げた。
「光子郎?突然済まなかったな…ありがとう」
太一がまだ繋がっている電話の向こうに笑いかけると、光子郎もくすりと笑って応えた。
『いいえ、これ位お安い御用ですよ。テントモン達に確認した所、今向こうで大きな動きは無いそうですから、今晩一晩くらいゆっくりなさったらいかがですか?』
「え…?」
『明日、ヒカリさん達がデジタルワールドに行かれる時に一緒に行かれれば良いと思います。それでは、僕はこれで』
「あ、光子郎!」
『はい?』
悪戯っぽく笑う光子郎が切ろうとするのを、太一は慌てて引き止めた。
「…ホントに、ありがとう…!」
『…はい。おやすみなさい、太一さん』
「ああ、おやすみ、光子郎」
受話器の向こうで、光子郎が笑っているのを感じた。
自分が嬉しがっているのを知って、喜んでくれている。
明日会ったら、もう一度礼を言おう…そう思っていると、自分の部屋の方から賑やかな足音が聞こえた。
「太一〜?たーいち〜?」
「アグモンっ!」
勢い良く扉が開き、その向こうからアグモンが飛び出して来た。
太一は難なくそれを受け止め、久しぶりの感触を愛しそうに抱きしめる。
「太一!わーい、久しぶりだね〜♪」
「ああ!よく来たな、アグモン!飯があるんだ。食べられるか?」
「うん!食べる〜♪」
全開の笑顔で頷いたパートナーを太一は眩しそうに見つめた。
いつも一緒にいられるヒカリとテイルモンに微笑ましさを感じながら、心の何処かで寂しさを抱いていたのも確かな事実。
今この家に、アグモンがいてくれることが心底嬉しい。
「もう、アグモン元気良すぎ!」
「あはは♪ごめんヒカリ。早く太一に会いたかったんだ♪」
「気持ちは分かるけどね」
おいていかれたヒカリが不満をもらせば、アグモンの本当に嬉しそうな笑顔に毒気を抜かれてしまう。
「ありがとな、ヒカリ、テイルモン。さっ、飯にしよーぜ?冷めちまう」
太一がそのパートナーとそっくりな笑顔で促せば、ヒカリも微笑んで頷いた。
その日の夕食は、いつになく賑やかで楽しいものになった。
アグモンは予想通りの食欲で、太一達が食べきれなかった分も綺麗に平らげてくれた。
「満足〜♪おなかいっぱ〜い♪」
「そうか…よかったな、アグモン♪」
「私達で片付けておくから、お兄ちゃん達お風呂入って来たら?テイルモンがいれておいてくれてるから」
「悪いな。じゃ、アグモン!風呂入ろーぜ?」
「ボクもう眠い〜…」
「こら!腹いっぱいになると眠くなるの変わんねーなあ」
笑いながらアグモンを抱え上げ、太一はそのまま風呂の準備をして浴室に向かった。
「お兄ちゃん、アグモン溺れたりしない?」
「へーきへーき♪すぐに目覚ますよ」
楽しそうな兄を見送り、ヒカリは腕まくりをして後片付けに取り掛かった。
洗った食器をテイルモンが綺麗に布巾で拭いていく…二人揃って同じ歌を鼻歌で歌いながら…。
結局目を覚ましたアグモンと風呂の中で遊んでしまい、ベットに潜り込んだのは髄分と遅くなってからだった。
「…何か懐かしーね、太一」
「ああ、そーだな」
一枚の布団を分け合って被りながら、こっそりと笑い合う。
あちらではともかく、こっちの世界で一緒にいられたのは、ほんの少しの間だけだった。
それでも思い出だけは星の数ほどに多く、並んで寝転がっていると色々なことが思い出されて、少しだけ胸が痛い。
そんな時、一本の電話がかかって来た。
「もしもし?」
『太一?何だ、ホントにもう寝てたのか?』
「いーや。布団には入ってるけどまだ寝てね―よ」
『だったらお前、ちゃんとオレのライブに来いよ!折角チケットやってるのに』
「はは。わりぃ…でも、今日は絶対に行かない」
『は?』
聞こえてくる声に、アグモンは不思議そうに太一の手元を覗き込んだ。
「太一だれぇ〜?」
「ヤマトだよ」
「ヤマト〜?」
『は?何だ今の声!?まさかアグモン!?アグモンがいるのか!?そこに!?』
「あはは♪詳しいことは明日な?じゃ、おやすみヤマトv」
『おい!たっ…』
追求したそうなヤマトを無視し、さっさとケータイの電源を切ってしまう。そして机の上に放り投げた。
「…いいのぉ?」
「いーのいーの♪ほら、もう寝ようぜ、アグモン」
「うん♪」
寄り添いあい、互いの温もりを感じながら瞳を閉じた。
明日は恒例の朝のロードワークをサボってアグモンといようか。
それとも、ヒカリやテイルモンも誘って、皆で散歩にでも出かけようか…きっと何をしても、何もしなくても楽しいに違いない。
いつもと同じ自分の部屋で、いつもと違う満たされた幸福感の中、太一はゆっくりとまどろみに沈んでいった。
いい夢が見れそうな予感と共に…。
おわり
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