その日は昼頃から酷いどしゃぶりで…しかし、朝の天気予報では降水確率は30%しかなかった。

 

 三年生の教室から窓の外を眺め、八神ヒカリは自分の今日の持ち物の中に傘が無いことを思って途方にくれていた。
 同じクラスの殆んどが彼女と同じ思いを抱いていることだろう。

 もし、放課後までに雨が止むことが無ければ、六年の兄の所へ行って聞いてみよう…そう思うのは、ごく当然の成り行きに他ならない。

 

 

 

 授業終了時刻になると、雨は少々小降りになったが、まだ傘をささずに帰るのは辛そうだった。

 何度か六年の教室に足を運んだことはあるが、自分よりも随分と大きい者ばかりの棟へ行くのは少しだけ勇気がいる。
 物珍し気な好奇の視線が居心地を悪くするのだが、それでも、兄が自分に気づいて微笑んでくれる瞬間のためならば、そんなものは苦にもならない。
 友人達に囲まれて『少年』の顔をしていた兄が、自分を見て、自分だけに見せる『兄』の顔になる…その瞬間がとても好きだった。

 ヒカリはふと顔を上げ、止め処ない思考を中断し、ランドセルを背負って立ち上がった。
 その間にも友人達が彼女に挨拶をして帰って行く…仲の良い者達の殆んどが帰り道が別なことと、方向が同じ者に限って同じように傘が無い事実が少し笑える。

 少しぼうっとしてしまっていて忘れていたが、兄は用が無ければさっさと帰ってしまうタイプだ。

 こんな雨の日に外でサッカーをしようなどと誘う奇特な友人もいないだろう。
 それに今日は、彼の好きなサッカーの中継が夕方からある予定だった。急がなければ先に帰ってしまうかもしれない…。

 慌てて教室を出ようと机を離れた時、微かに廊下の方がざわついた気がした。

 不思議に思って耳を澄ますと、勘違いでは無く扉の向こうが騒がしい…。
 何だろうと首を傾げた調度その時、扉が勢い良く開いて見慣れた姿が顔を覗かした。

「ヒカリーっ!まだいるか?」
「お兄ちゃんっ!?」

 予想していなかった彼の来訪に驚きの声を上げるが、次の瞬間にはもう、何となく彼の目的が読めて苦笑を浮かべた。
 自分達は同じ事を考えていたらしい。

「おっ、ヒカリまだいたか…………」

 太一はヒカリを見つけて笑顔を浮かべたが、妹の表情を見て、彼の方も事情を察したらしい。

「…一応聞くけど、傘持って来たか?」
「…持ってない…」

 顔を合わせ、兄妹してにへらっと笑い、次いで揃って同じ溜め息を零した。

「仕方無い…仲良く濡れて帰るとするか」
「そーだね」

 一人濡れて帰るのは気が引けても、二人でならば、その過程すら楽しそう。
 くすりと笑うと、心で思っていたことが通じてしまったかのように、太一がぽんっと頭を軽く叩いて来た。

「あの、八神先輩…よかったらこの傘…」

 廊下に集まっていた生徒達の内、傘を持っていた一人がおずおずと彼に自分のそれを差し出した。
 太一は一瞬目を見開いたが、直ぐに微笑んで手を振った。

「いいよ、お前が濡れちゃうだろ?」
「あ、オレは誰かに入れてもらえばいいですし、それに…」

 彼はちらりとヒカリの方を見る。

「ああ、平気平気。こいつは…」
「え?…わっ!?」

 明るい太一の声と共に彼の香がヒカリを包み、ヒカリは驚いて自分の上にかけられたものを見上げた。

「こーしてオレの上着かけてってやるから♪気持ちだけもらっとく。ありがとな♪」
「え…いいえ…」

 太一が微笑むと、少年は差し出していた傘を握り締めて赤くなって俯いた。
 太一はもう一度彼に声をかけると、妹を促してその場を離れ、ヒカリもにっこりと頭を下げて横を通り過ぎた。

「ヒカリ、ちょっと濡れるけど大丈夫だろ?」
「うん、平気♪お兄ちゃんの服あったかくて大きいもんv」
「雨に塗れりゃ冷たくなるよ。急ぐぞ?」
「うん!」

 廊下には下校時間とも思えないほどの生徒の数が揃っている。
 そんな彼等は、友人達と立ち話するでも無く、空模様を確認するでも無く…視線が一定方向へと集中している。
 この棟にいるはずの無い彼の背中へと…。

 ヒカリはその視線の先を敏感にキャッチし、自分が彼の教室に訪れる時とはまた違う意味で目立ち、注目を浴びている兄を見上げて苦笑した。
 彼は去年の夏の経験のおかげで、自分に害するものの視線には敏感だが、それ以外のものに対しては頓着しなくなってしまった…始終気にしていては疲れるというのが彼の言い分だが、ここまで熱い視線を浴びていながら綺麗に無視出来るというのも、一つの特技なのではないのかと思えてしまう。

「?…どうした、ヒカリ?」
「お兄ちゃん大好きv」
「何だ、それ」

 脈略の無い会話に呆れたように笑いながらも、擦り寄ったヒカリを頭ごと抱きしめてくれる。
 羨ましそうな視線を感じながら、ヒカリは他に変わるものの無い優越感に感謝してしまうのだった。

 八神兄妹が傘もささずに下校したこの日…まるでその後を追うかのように、傘の無い生徒達が大量にふらりと校門を出て行ったとか行かなかったとか…。

 

 

 しとしとと降る雨の中、光子郎は緑の傘をさして八神家に向かっていた。

 本当ならこんな雨の日は、部屋に閉じ篭もってバージョンアップのプログラムの一つや二つ作成したい所だが、用が太一がらみとくれば出かけることも苦にならない。
 それに、昼頃の降りならば躊躇したかもしれないが、今は随分と雨足も緩くなり、道路を走る車が徐行しなくても水しぶきはそんなには跳ばなくなった。

 次の角を曲がれば彼の住むマンションが見える…という時、前方に見知った背中を見つけた。
 珍しい晴れた空柄のプリントされた傘にも見覚えがある。
 あまり家にいないという彼女の父親が、旅先で見つけたものを送って寄越したらしいのだが…雨の日に晴れた空の傘を広げるなんてと毒づいていた割には、雨が降ると決まってその傘をさして出かける彼女の姿が見れるようになった。

 以前誕生日のブレゼントを渡し、喜んでもらえなかったことから喧嘩した経験のある彼が『ホント、素直じゃないよな』と笑ったのは記憶に新しい。
 この方角だと、どうやら行く先は同じようだ。

「空さんっ!」
「え?…光子郎君!?どうしたの?こんな雨の日にあなたが出かけるなんて…」

 傘をさして駆け寄って来た自分の姿に、彼女は少なからず驚いたようだった。
 知りすぎ、知られ過ぎているような自分達の生態に小さく苦笑を浮かべるが、不快なものでは決して無い。

「先日太一さんに頼まれていたプログラムが出来たので…今日なら間違い無く家におられるでしょう?」
「ふふ、そうね。もうすぐキックオフだもの♪」
「空さんも太一さんに何か用なんですか?」
「ええ。太一ったら、帰りの会が終わったら直ぐ出て行っちゃって、明日提出のプリント忘れて行っちゃったのよ」

 仕方なさそうに笑いながら、傘の柄で背負ったランドセルをぽんっと叩いてみせる。

「え?授業のプリントなら、今日持って行っても明日の朝また空さんに聞くことになるんじゃ…」
「あはは♪違うの。保護者印がいるのよ、これ。進路の希望を書いて提出するやつ」
「ああ。そういえば…空さんはどうされるのですか?」
「とりあえず、今の所は公立に進む予定よ。丈先輩が行った私立も制服可愛いから惹かれるんだけど、色々大変そうだものねぇ〜」
「丈さんが大変そうなのは認めますけど…制服が基準なんですか?」
「うふふ♪選択肢の一つであるわね」

 相変わらず、どこか逞しい印象を受ける彼女の考え方に小さく笑った。
 片意地も張らなくなり、女の子らしい一面も覗かせるようになったのに、頼もしく思えるのが面白い。

 他愛も無い話をする内に八神家に到着し、インターフォンを押すと中から返事が聞こえた。

「あら、空ちゃん、光子郎君。いらっしゃい、今太一お風呂に入っているのよ…中入って待っててくれる?」

 顔を出した八神母は、二人の姿を認めるとにっこり笑って家に招き入れた。

「お邪魔します。太一、雨で転んだりでもしたんですか?こんな時間からお風呂に入ってるなんて」
「ふふ、違うのよ♪今日朝は降水確率低かったじゃない?それであの子達傘持って出なかったものだから、二人揃って濡れ鼠で帰って来てね?」
「ああ、それで…」

 何だか様子が目に浮かぶようで、自然顔に笑みが浮かぶ。
 空は、彼女の説明に太一が挨拶もそこそこに教室を飛び出した訳を理解した。
 どうせ彼の家に来ることになったのだから、傘に一緒に入れてあげたのにと思ったが、それもまあ、後の祭りというもの。

「もう直ぐ出て来ると思うから、そこに座っててくれる?そーだ、二人とも烏龍茶でいい?」
「あ、頂きます」
「すみません」

 八神母がにっこり笑って冷蔵庫を開けるのと、浴室の扉が楽し気な笑い声と共に勢い良く開いたのは同時だった。

「あ!コラ待て、ヒカリ!頭ちゃんと拭かねーと風邪ひくだろっ!?」
「平気だも〜ん♪」
「平気じゃねぇっつーの!今日は雨に濡れたんだから、ちゃんと拭かなきゃダメ!」
「はぁ〜い」

 追いかけっこをするように出て来たのは紛れも無く、彼等が良く知る八神兄妹。
 太一は自分の頭にもタオルを乗せながら、先に出た妹を捕まえてその頭をがしがしと拭いている。

「…………」

 突然の展開に、空と光子郎は為す術も無く、ただ目の前で繰り広げられる情景を見守っていた。

「二人ともちゃんと温まった〜?」
「うん♪ちゃんと百まで数えたもん♪」
「太一、本当?」
「おーよ。オレが保証する…途中三回位数が戻ってたから、余裕で百超えてるぜ」
「そう♪あ、お友達来てるわよ」
「へ?」

 そこまで話して、カウンターの向こうの母親からやっと視線をソファに移した二人が彼等の存在に気づいてくれた。

「あれ?空さんと光子郎さんだぁ〜♪こんにちわ〜v」
「よお、空!一時間位ぶりじゃん?光子郎もどーしたんだよ?」
「え?」
「え?」

 全く、全然、これっぽっちも不自然な所は無く、敢えて言うなら、不自然過ぎるほど自然に接してくる二人に、空達は二の句が告げれず顔を見合わせた。

 今、自分達が聞いたのは幻聴だったのだろうか?浴室から揃って出て来たように見えたのは、幻だったのだろうか?
 しかし、動かぬ証拠とでも言うように…彼等はお風呂上がりたてのほっかほか状態。
 頭を抱えてもよろしいでしょうか…。

「?…どーしたんだ?こいつら…」
「さあ…」

 本気で不思議そうな八神兄妹の声を聞きながら、二人は真剣に頭を抱え込み、脱力していくの止められなかった…。


 

 

 

 それは、ある雨の日の出来事。

 知り尽くしていると思っていた仲間のことでも、ある日突然知らなかった一面に出くわし、新事実が判明したりすることがある。
 それは本当に突然で、口も利けなくなってしまうこともあるけれど…。

 

 だからこそ、人生は面白い。



 

おわり



 八神兄妹メインは、やっぱ書いてて楽しいですね(笑)
 ちょっぴり空と光子郎が憐れですが…まあ、彼等も
 その内慣れるでしょう!(笑)
 全然関係無いですが、何だか私、八神家のお風呂場
 には『あひる隊長』がいる気がしてなりません(笑)