もしも、彼の隣にいられるならば…魂を悪魔に売っても構わない。

 

 

 そう思う人間は、異常なほど…多い…。

 






 

 

 2001年、春。
 この年の卒業式は、お台場小学校の伝説になっている。

 卒業式に出席するのは、卒業生である六年生と在校生である四・五年生、あと教職員、卒業生の保護者達である。
 下級生の一・二・三年生は卒業式よりも前に、『お別れ会』と称して仲の良かったお兄さんお姉さんとのお別れの挨拶を済まし、卒業式への参加は許されていなかった。

 しかし、この年の卒業式は、例年とはその趣を大きく変えていた。

 泣き崩れる在校生達の姿に感動するよりも呆然とし、呆気にとられながら会場を後にすると…そこには、本日は自宅待機のはずの下級生達がそろって出迎えたのだった。

 大多数の女子はヤマトの元へ駆けより、残りの女子と、圧倒的に多い男子達は太一の元に馳せ参じ…遅ればせながら事態に気づいた在校生達に後ろを支えられて何とかその場に踏み止まったという逸話が残っている。
 余談だが、太一とヤマトの胸に飾られていた卒業生用の飾りリボンは、人だかりが去った時には、いつの間にか消えて無くなっていたという…。

 それはさておき、そんな訳でお台場小学校には、未だに太一達を慕う子供達が大勢残っている。
 特に、太一が在籍していたサッカークラブの部室には、各ロッカーの奥には彼の写真が張られている等という噂まで、実しやかに語られていたりする…恐るべし、カリスマ太一…。

 

 

 

 

 ざわり…と空気が揺れた様だった。

 何だろうと思いながらも深い興味は沸かず、それでも顔を上げた大輔は、習慣になってしまっていたパソコン教室への廊下を渡っていた自分に気づき、小さく舌打ちして回れ右をした。
 本宮大輔は最近機嫌が悪い。
 周りの者は皆そのことに気づいているけれど、あまり気にしていない。

 今日はデジタルワールドへは行かない。

 本当は行きたいけれど、先日、ちょっとした問題が出て来て、しばらく行かないことにしようと皆で話し合って決めた。
 その間、チビモン達は各パートナーの家で休息を取るという案も出されたが、当のデジモン達が家の人達に見つかるとヤバイし、デジタルワールドに戻って他のデジモン達と情報収集しておくと、あっさりと爽やかに彼等の世界に帰ってしまった。

 それが嫌なのでは無い。
 確かに、出会って以来あまり距離を持ったことの無いパートナーとの別れは、例え少しの間だとしても寂しい。
 だが、この胸に燻る憤りはそんなものでは無い…そんなものでは無いのだ。

 教室のあちらこちらから、たくさんの楽しげな話声が聞こえる。

 放課後だというのに、ずいぶんと大勢の子供達が残っているようだ。
 普段ならば、この時間残っているのはクラブや委員会がある生徒だけで、校舎内等は閑散としているはずだ…。
 それなのに異常なまでに多い、居残っている子供達…。

 大輔はむっつりと黙り込み、自分の教室へと向かう。

 実は、これが大輔達がデジタルワールドにいけない理由なのだった。

 デジモンカイザーという敵が現れ、新しい『選ばれし子供』達が揃い、太一達のデジモンが進化出来ずに例え戦力にならなかったとしても、色々な面で彼等を支えサポートするために、度々年長組は小学校を訪れていた。
 そしてデジタルワールドへ渡っていたのだが…それが、校内に残っていた生徒達に目撃されるようになり、噂されるようになっていた。

 放課後残っていると、卒業した先輩…八神太一達に会える…と。

 それでもあまり気にせずすごしていたのだが、先日、パソコンルームで『隠しカメラ』が発見されるに至り、しばらくの間…そう、噂が下火になる位まではあの教室を使わないことにしようという話になったのだった。

 大輔はそれが面白くない。

 万が一にも、自分達がデジタルワールドへ行く所を目撃されてしまっては困る…それは分かる。分かるのだが…そのせいで、卒業してしまったせいで疎遠になりかけていた太一との接点が減ってしまうのが、どうしても嫌だった。
 こんなことを言えば、また誰かに『遊びに行くんじゃないんだぞ!』と怒られそうなので口には出さないが、それでも不機嫌さを隠せるほど、大人ではなかった。

「あれ?」

 教室に戻ると、いつもは用も無いのに残っているクラスメイトや、その他の理由で残っている者など五〜六人はいるのに、今日はそんな奴等所か、ヒカリやタケルの姿も見当たらなかった。

「…もう帰っちゃったのかな?」

 約束をしていた訳では無いが、いつもデジタルワールドから戻って一緒に帰っているのに、挨拶も無く姿が見えないと、少し寂しい気がした。
 教室につくまでの不機嫌さとはうって変わってしゅんとした心持で、大輔はとぼとぼとグランドに向かった。
 今日はサッカークラブの練習のある日なので、あまり気分では無かったが、次に胸をはって会うために練習をサボるわけにはいかない…。

 歩く大輔の横を、複数の足音が駆け抜けて行く。

「おい、ホントか!?」
「ホント!マジだって!上から見たもん!」
「だけど最近全然だったじゃんか!?」
「んなの知らねーよ!だけど、今日はいるんだよ!」
「でも何でグランドなんだよ!噂じゃ…」
「んなの決まってんじゃねーか!」

 騒々しい彼等の言葉に、思わず首を傾げる。

 誰がグランドにいるって?

 そこへ、彼等の向かった先から一際大きな歓声が上がった。

「………?」

 近付くにつれて歓声はどんどん大きくなり、サッカークラブのグランドを中心にすごい人だかりが出来ているのが分かった。

「先パ――――イ!」
「八神センパ―――――イ!!」

 一瞬耳を疑ったが、考えるよりも先に体が動いていた。
 人垣を掻き分け、やっとの思いでグラウンドに出ると、今正に、あっさりとボールを奪い取ったばかりの…太陽よりも眩しい人の姿が目に飛び込んで来た。

「…た、太一先輩…?」
「あれ?大輔君遅かったね」

 半ば困惑したまま呟けば、横から聞き慣れた声がかけられた。

「タケル!?」
「あ、大輔君。お兄ちゃ―――ん!大輔君来たわよ〜っ!」

 同じく大輔を見つけたヒカリが、手を大きく振って太一を呼んだ。
 周りの視線を一身に浴びても、ヒカリもタケルも気にした風も無い…どちらかといえば、羨ましげな視線を誇らしげに受け止めている。

「おう!大輔遅かったな!掃除終わったのか!?」

「は、はい!」

 向けられた笑顔に、気分が急上昇していくのが分かる。
 現金なものだ…先程までの拗ねていた気持ちはもう、どこにも無い。

「ほら、太一さんがお呼びだよ」
「早く行ってあげて?」

 ちゃっかり特等席を確保していたヒカリとタケルが大輔の背中を押す。
 まろぶようにグラウンドに下りると、側にいたチームメイトにべしっと背中を叩かれた。

「大輔、さっさと着替えて来いよ!」
「はい!」

 着替えを終えて太一の元に向かうと、彼の周りは上級生も下級生も入り乱れた二重三重の壁が出来ていた。
 その様子をあんぐりと眺め、そういえばと思って辺りをキョロキョロと見回す。

「本宮、どうした?」
「あ、ああ。なぁ、監督は?姿見えねぇけど…」
「ああ、何か太一先輩が来たら、太一先輩に後頼むって言って、職員室行っちまった」
「ああ?じゃぁ、太一先輩ってもうだいぶ前から…」
「そーだな、一・二十分位前から来てくれてるかな…?」

 でも、近付きたくてもバリケードがなぁ〜とぼやく友人を無視し、大輔はがく――んと落ち込む。

 さっさと来ていれば良かった………!!!

 落ち込む大輔の耳に、わっと歓声が上がったのが届く。

 見ると、太一が輪の中で技を披露している所だった。
 右へ左へ、まるでボールそのものに意志があり、そしてボールが太一を慕っているかのように彼の思い通りに動いている。

「と、こんな感じかな。ほら、お前らもやってみな!」
「はい!」

 ぽうっと見ていると、綺麗にボールを足元で止め、太一がにっこりと後輩達に振り返った。
 もっと見ていたかったが、自分もあんな風にやってみたいという気持ちの方が強いのだろう…やりやすそうな場所を求めて散って行く。

「大輔!ぼーっとしてねーで、お前もやってみな」
「あ、はい!…て、それより太一先輩。どーしてここにいるんすか?」

 他の者のフォームを見ながら、太一がゆっくりと大輔の所に歩いて来た。
 横にいた友人が、少し緊張に体を強張らせたのが分かったが、大輔の方は太一が話し掛けてくれたことが嬉しくて仕方無いように駆け寄った。

「ああ、大輔はさっきいなかったな。オレんトコの部活の監督と、ここの坂田先生が大学の先輩後輩らしいんだけど、監督から先生に何とかってレポートの資料持ってってくれって頼まれてな?んで、持って来たら坂田先生にこいつらに指導つけてくれって頼まれちゃってさぁ〜」

 あはは〜と笑いながら、がしがしと頭を撫でる。

「あたっ、あたたたっ!センパイっ痛いっスよっ!」
「うるせい!このオレが来てるってのに、遅れてくる図々しい奴が、口答えすんなっ!」
「だって知らなかったんすよ〜!」

 首を羽交い絞めにされながらの押し問答。

「おう、林!毎日元気にサッカーしてるか?」
「はっはい!がんばってます!」

 真っ赤になって直立不動の姿勢をとった友人を、太一に挟まれながらきょとんと見上げる。

 そういえば、こいつも太一先輩の大FANだっけ…。

 
「おーし、じゃ、大輔!お前もさっさと始めろ!後でテストするからな!?」
「マジっすか!?」
「おうよ。先生に報告することになってるからな」

 がんばれよ〜と言いつつ去って行く後姿を見送ってふと…。

「……林?」
「…おっまえ…よく太一先輩と、普通に話せるよな…」
「はあ?」

 よく分かっていない大輔の言葉に、白い目が向けられる。

「上がっちまって、まともに話せねーってこと!」

 襟ぐりを捕まれて言われた中味は、ますます分からない…。

「……太一先輩、すっげぇ話やすいじゃん…?」
「んなのは分かってるよっ!確かにそーだよっ!でも緊張しちゃうんだよっっ!!」

 真っ赤になって叫ぶ林が殴るように襟ぐりを離した直後、後頭部に強い衝撃を受けつんのめって倒れこんだ。

「おらそこっ!喋ってないでさっさとやれっ!」
「はいっ!すみませんっ!」

 太一の蹴ったボールが、綺麗な放物線を描いて大輔に直撃したのだった。
 すかさず謝罪した友人を目の端に捕らえながら…大輔は「ずるい…」と呟いたが、誰にも相手にしてもらえなかった…。

 

 それから、幾つかの技の指導等がされていき、いつも以上に真剣に練習に取り組んでいた子供達に向かって、太一が晴れやかな爆弾を投下した。

「それじゃ、今日ラストの課題。オレからボールを奪えた奴は、オレの得意技を教えてやろう♪」

 空気が凍った。

 太一の得意技の伝授→個人指導(たぶん)→デートv(…)

 とても分かりやすい三段活用が少年達の脳裏にオーバーラップした。
 一気に期待に胸を膨らます面々と反対に、浮かんだ言葉は同じでも、一気にジェラシーの渦に身を投じたギャラリー達…。
 内二人の瞳には、真正面から見つめれば逃げ出さずにはおれないほど剣呑な光が浮かんでいる…更にその胸の内には、万が一の事態に供え、幾つかの方策も浮かんでいたことだろう。

「あれ?知りたくねぇ?」
「とんっっでもありませんっ!是非ご指導お願いしますっっ!!」

 見事にハモった二十数人の子供達…見事なまでの結束力。

「そうか?じゃ、まず五十音順八人出ろ!誰か時間測ってくれ。一組十分な」
「はい!オッケーです。いつでもどうぞ!」
「よーし、んじゃ行くぜ?」

 ぞろりと前を塞ぐ後輩達の顔を見て、太一がにやりと笑う。
 ぽんっとボールを蹴ったのを合図に、未だかつて見られたことの無い…熾烈な戦いがギャラリーをも巻き込んで始まった。

 

「脇が甘い!もっと腰落とせ!」
「わっ!?」

 立ち塞がった三人をいとも簡単に抜き去って行く…既に三組目の後半に入っているが、誰一人としてまだ太一からボールを奪った者はいない。
 終わった者達は、フィールドの外で精魂尽き果てて潰れている。

「追いついた!」
「おっ?来るか渡辺!」
「行きます!」

 一度足元でトラップして、そのまま真正面から突っ込んで来た者の頭を跳び越える。

「あ、やべっ」
「ぐあっ!」

 跳躍が足りず、太一は下にある後輩の背中に手をつき、馬跳びの要領で崩しかけたバランスを何とか整える。だが、下敷きになった者は体重を支え切れず地面に沈んだ。

「あ――っ!太一先輩それファールじゃないっすか!?」
「うるせーっ審判いないんだからいいんだよっ!オレだって疲れてんだっ!」
「そんなぁ〜っ」
「大丈夫かぁ?渡辺〜?」
「はい〜何とかぁ〜…」

 他から飛んで来た野次に対しては冷たく返すが、潰してしまった当人に対しては案じる言葉をかける…それが全てプレイの最中なのは頭が下がるが、しっかりとボールを守りながら倒れ込んだ少年の元まで行き、肩まで叩いて行く所は、もはや人間技では無い…。
 叩かれた渡辺は、太一の方を見て何とか笑みを浮かべたが、体力の限界だったのか、再びずるりと崩れ落ちた。

「ありゃりゃ…ん?」
「太一先輩…勝負!」
「ほほーう、まだ潰れてなかったのか大輔」
「太一先輩の得意技を伝授されるのは、オレっす!」
「簡単にゃ教えないぜっ!」
「本宮に続け――っ!」

 残った者達も最後の気力を振り絞って立ち塞がる。
 それを見守るギャラリー達にも自然と熱がこもる…もちろん太一の応援だったが。

「大輔!右から抜くぞ!」
「へっ!?」

 言った先から思わず右側に足を伸ばすと、太一はあっさり左側から抜いて行った。

「右じゃ無いんですかっ!?」
「ボケっ!『オレから見て右』だっ」
「きったねぇ〜っ!」

 走る度に汗が光る粒になって舞う。
 髪が揺れて楽しげな瞳が垣間見える。

 大輔はその姿に見とれた…。

 そう、もう三十分近く全力で走り回っているというのに…何て楽しそうにプレイしているのだろう。
 周りの状況を追う目の動き、牽制する手の仕草…ちょっとした動きに惑わされ、僅かな隙をつかれて抜かれてしまう。
 それなのに、ボールの方はほとんど見ない…。

 何故…?

 まるで、どうすればどう動くのか…ボールの状態を知り尽くしているようで、ただただ、見とれた…。

 すごい…と心から思う。
 ああなりたいという憧れは、初めて彼を見た時から変わらずにこの胸にある。

 見せてくれる笑顔が嬉しい。
 振り返った先の視界に映れることが嬉しい。
 呼んでくれる名前が嬉しい。

 嫉妬すら浮かばぬほどの、何処までも純粋な憧憬。

 

 気づくと、太陽を背負った太一が、呆然と座り込んでいる自分に手を差し伸べてくれていた。

「終わったぞ…大輔」
「あ……はい」

 太一の手にすがって立ち上がる。終了の合図すら聞こえていなかったらしい。
 結局、誰一人彼からボールを奪えなかったのだ。

「よ――し、じゃぁ全員集合―――っ!」

 太一の声に、わらわらと部員達が集まってくる。

 ボカッ

「……いて―――……」

 その中の何人かに一斉に頭を殴られたが、痛みと疲れで、文句を言う気力も無い…そして、加害者達は知らぬ顔で明後日方向を見つめていた。

 太一の前で、普段監督を前にするように整列した部員だが、中には少し不安そうにしている者もいた。
 太一は自分達の相手を全力でしてくれた…だが、自分達は彼の『ボールを取ってみせる』という期待に誰一人応えられなかった。

 そのことが、悲しい。

「今日の練習はこれで終わりだ。坂田先生が戻って来たら今日の出来を報告する予定だったが、待てど暮らせど戻って来る気配が無い。この場合オレが職員室に行って報告するのが筋なんだろうが、ここの職員室に行くと八割位の確率ですぐに帰してもらえないからパス!つーわけでキャプテン!」
「はい!」
「お前、先生にクラブ終了の報告だけ行ってくれ」
「はい!」
「…で、今日のことだが……言っちゃなんだが…」

 普段賑やかな子供達が、しん…と静まり太一の次の言葉を固唾を飲んで待つ。
 ぱらぱらと顔を上げる者もいるが、下を向いている者が大多数だ…。

「……完全にオーバーワークのようだな。…大丈夫か?お前ら…」

 少し呆れたような声音…それに驚いて何人かが顔を上げる。

「まぁ、あんだけ走り回れば仕方ねぇか。よく頑張ったよ、お前ら」

 向けられた優しい笑み。
 嬉しさと戸惑いが場を支配していく。

「オレも久しぶりに楽しくサッカーが出来た…ありがとな、皆」

「太一先輩……」

 呆然と誰かが呟く…。
 違う…お礼を言うのは、楽しかったのはむしろ…。

 そう、いつだって欲しい言葉をくれる人。
 ただの球蹴りゲームだと思っていたものを、初めに『楽しい』と『すごい』と思わせてくれたのも、目の前のこの人だった。

「お前ら、上手くなったよ」

 この笑顔をくれるなら、傍で見ることを許されるなら、どんなことだって出来る。
 何だってしてみせる。

「太一先輩っ!」
「わっ!?」

 大輔が叫び様タックルをかました。
 太一は驚きながらも慣れていたので、少しバランスを崩しただけで難なく踏み止まる。
 逆上したのは回りのチームメイト達だった。

「本宮!」
「大輔てめぇっ!」
「いつもいつもお前はぁっ!」
「太一センパイ、こいつだけずるいですよっ!」
「はぁ!?」
「オレもぉ!」
「あっ、オレもっ!」
「だぁっ、お前らもかぁっ!」
「おいおいおいっ!?」

 大混乱の太一と、本能炸裂の後輩達。
 押し合い圧し合いの集団を見て、黙っていられるはずも無いギャラリー集団。
 『部外者はグランドへの立ち入りを禁ず』という不文律を、髪一筋残して守って来た彼等が、禁断の一歩を踏み出そうとした時…可愛らしい声が時を止めた。

「お兄ちゃんv」

 その声は確かに愛らしい響きを持っていた。
 呼ばれた当人は、その響きしか感じ取れなかっただろう…だが、我を失いかけていたお子様達の心には、絶対零度の刃となって深く突き立った。
 彼女が表現しようの無い威圧感を伴って一歩進み出ると、まるで蜘蛛の子を散らしたように道が出来た。

「ヒカリ」
「はい、タオルvしっかり汗拭かなくちゃ、風邪ひいちゃうよ?」
「ああ、サンキュー♪」

 余人に侵しがたい、ほんわか空気が彼等を包む。
 先程までの肌を突き刺すような、恐ろしい『何か』はもう感じられない…それを不思議に思ったのは一瞬。次の瞬間には、仲良さげな八神兄妹の姿を羨望を込めて眺めていた。
 その空気の中に、何の躊躇もせず入っていけるのは、この少年のみ。

「太一さん、お疲れ様ですvはい、これ。喉渇いたでしょう?」
「サンキュータケルv気が利くな♪」

 嬉しそうに受け取り、光る汗を拭いながら喉を潤していく太一。

 その手があったか…。

 ギャラリー達の約九割が同じことを同時に思った。
 太一のプレーの最中に、彼がほんの少しだけ席を外したのはあれを用意するためだったのだ…ほんの少しも勇姿を逃さぬために、後の美味しい状況をみすみす逃してしまったのだ。悔しさは理解の範囲だが、小学生でそこまで気が回るのも…ある意味怖い。

「お前ら、待っててくれたのか?」
「うん、お兄ちゃんのサッカーしてる所久しぶりにたくさん見れて、すっごい楽しかったv」
「そうか?そーいやタケル、お前バスケ部の方は良かったのか?」
「気にしないで下さいvそれより、早く帰ってシャワー浴びた方がいいですよ?」
「…汗臭いか?」
「あはは。そういう意味じゃなくて、ヒカリちゃんも言ってたじゃないですか。風邪ひいちゃいますよってことですよ♪」
「ああ、そうだな。おーし、全員注目〜!」
「はい!」

 右側にヒカリ、左側にタケルを従え、太一がにこやかに振り返った。

「まず阿部!お前は攻めが弱い。もっと自信もって突っ込め!読みは悪くないから」
「あ、はい!」
「次、唐木!お前はボールコントロールが課題だな。パスミスが大すぎだ…時間があったらリフティングで慣らしておけ」
「はい!今日からやります!」
「…今日は休んどけ。これ以上無理すると明日筋肉痛になってるぞ。次、喜田〜っ!」
「はい!」
「お前は……」

 次々と部員の名を呼び上げながら、的確に指示を与えていく。
 部員達は真剣な眼差しで彼の話を聞き、質問しながら大きく頷く。

「…相変わらず、だね。太一さん」
「うん。細かい所、よく見てるから」

 半分呆れながら、それでももう半分は、誰よりも誇らしげに兄を見つめる。
 誰に対しても真っ直ぐな自分の兄…時にそれが歯痒く感じることもあるけれど、そんな彼だからこそ、彼女は彼女でいられるのだ。

「渡辺!力押ししすぎだ。お前は足が速いんだから、真正面ばっかに周りこまずに、もっとずるくなる位で調度いい。あと目でボールを追う癖を押さえろ。ボールばっか見てたんじゃ、フェイントかけてくれと言ってるよーなもんだ」
「はい!ありがとうございます!」
「…あの、太一先輩…オレは?」

 只一人名前を呼ばれなかった大輔が、恐る恐る手を上げる。

「大輔…お前は騙されすぎ!こないだ教えてやった弱点、直ってなかったぞ!?」
「え?えぇ〜!?」
「よく言えば正直。悪く言や単純。それはお前の美点でもあるけれど引っかかりすぎだ。人の真理に聡いお前なら、何が本当で何が嘘かを見抜けるはずだ。表面に惑わされるな。真実を見極めろ!…そうすりゃ、次はオレからボールを奪えるさ」
「……太一先輩!」
「ま、すぐまた奪い返してやるけどな」

 冗談ぽく言っているけれど、彼がどんなに真剣に教えてくれているか、分かる。
 彼の教えてくれることはいつも、一つの面から見たことだけでは無い。
 違う状況、違う場面になった時ねふと思い出してこういうことだったのかと思うことが多い…だから、きっとこれも、サッカーのことだけでは無い。きっと…。

「ありがとうございました!」
「…がんばれ!」

 勢い良く下げた頭に、ぽんっと温かい温もりが降りた。

 嬉しい…。

 素直に嬉しいと思える自分が、嬉しい。
 もっと彼に認められたい…彼の傍にいても、誰も文句を言わせない位に大きくなりたい。

「よし、じゃ、今日は解散!お疲れ!」

「ありがとうございました!」

 一斉に頭を下げた後輩達ににっこりと笑い、太一は妹と、彼に最も近い弟分と一緒に帰って行った。

 今は、まだこの距離が精一杯…でも、いつかきっと…。

「…この、バカ宮っ!」
「だっ!何だよいきなりっ!?」

 今日何度目だろう謂れの無い暴力に、流石に声を荒げると、そこにはずらりと殺気を並べたチームメイト達が揃っていた。

「…あ、あの、皆さん…?」
「………何でてめーだけ、太一先輩に特別扱いされてんだよ…?」
「…はい?」
「とぼけんなっ!頭撫でてもらいやがってぇ〜っっ!」

 じりっと近付いてくる只ならぬ空気に、大輔は知らず後退った。

「いや…ちょっと…あのな…?」
「問答無用!天誅〜〜っっ!!!」
「ちょっと待てぇ―――っっ!!」

 鬼のような形相の仲間達に追いかけられながら、必死なはずの心はどこか温かさに満たされていた。
 自分がヒカリやタケルの立場を少し羨ましく思っているように、彼等からは自分が羨ましく見えるらしい。

 彼に憧れてサッカークラブに入った。
 彼の妹と同じ年で、自分に懐いてくる子供を、弟のように面倒を見てくれた。
 デジタルワールドという、彼のトップシークレットを打ち明けてくれる位には、彼の信頼も得ていた。
 そして、大切なパートナーを得て訪れた彼等の世界。

 少しずつ、確かな想いで近づけているだろう…距離。

 自惚れてもいいのだろうか。
 彼を慕うたくさんの外側の人間では無く、彼の傍にいられる、内側の人間だと。

 

「…何か、騒がしいな…何かあったのかな?」

 後にして来た小学校を襲った喧騒に、太一は不審気な視線を向けた。
 それにヒカリとタケルそ目を合わせ、くすりと微笑を分け合う。

「何だ?知ってるのか?」
「んーん♪知らな〜いv」
「そうそう♪帰ろ、太一さんv」
「ねvお兄ちゃんvv」
「??…おい?」

 楽しそうに腕を引っ張る妹達に、引きづられながら太一は家路を急ぐ。

「それはそうと、太一さんどう思います?」
「そーだな。あれだけハデに表に出とけば、パソコンルームの方は注意が反れるんじゃないか?…明日明後日頃には、テイルモン達を迎えに行けるよ」
「うんv」

 彼の隣は誰もが望む、癒しの場所。
 それ故に競争率は果てしなく高く、隙あらばと常に誰かが狙っている。
 だから、簡単には譲らないし近づけさせたり、しない。

 彼は何処まで来るだろう。
 まだライバルにもなっていない彼だけど、『仲間』になった彼ならば、他の誰よりも自分達に近い所に来るだろう…だから、どんな小さなことでも敵に塩を送ったりしない。

 まだ少し困惑気味…それでも全てを許してくれる優しい人の、優しい横顔を、彼等の持つ最良の愛しさを込めて見つめる。
 例えその想いに多少の問題があったとしても…彼等の経験して来た出来事に比べれば、些細なことで済まされる程度のものだから。

 

 

 

 

 遠い、幼かったあの日から、想いは大きくなるばかり。
 いつか、あの人の傍に立てますように…。

 

 

 いつか、きっと………たぶん(笑)





おわり


 つらつらと心の赴くままに書いたので、長くなって
 しまいました…出来はともかく(苦笑)
 思っていたのとだいぶ変わってしまいましたが、
 太一さん賛美小説としては、それなりに…まぁ(笑)